『木野』と「抑圧されたものの回帰」

『木野』と「抑圧されたものの回帰」について

 

これは俺が学生のときに書いたものだ。すこし加筆修正してここに載せることにする。『木野』を読んでいて、ふと「これはトラウマの構造と相似的だなあ」と感じたので村上春樹ラカン的に解釈してみた。なお途中に挿入される手書きの図解が雑すぎる点についてはどうかご容赦願いたい。

 

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 村上春樹による短編小説『木野』(短編集『女のいない男たち』所収)は、精神分析における「抑圧されたものの回帰」の物語である、と読むことができる。ここでは、『木野』の物語構造を取り出し、「抑圧されたものの回帰」の構造と比較し、その対応関係を提示する。

 


 「抑圧されたものの回帰」とは精神分析の用語である。分析主体(患者)にとって認めたくない出来事にまつわるシニフィアン*1は無意識の領域に押し込められる(抑圧)。するとそのシニフィアン(または表象)は別の姿に形を変え、自我の検閲をくぐり抜けて再び意識の領域に浮かび上がってこようとする。これが「抑圧されたものの回帰」であり、それは時として「夢」や「症状」という形をとる。(図1)

 

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「抑圧されたものの回帰」の実例を挙げる。少し長い引用だが、たとえば以下のようなものだ。

 

 彼女は一つの思い出に苦しめられていた。情景は悪夢となって繰り返し襲い、その度に彼女は眠りを妨げられなければならなかった。分析の場においても、気づけばまたその思い出を話し始めていることに気づき、彼女は当惑するのだった。

 その思い出は、汗ばむ男たちが打ち付けるハンマーの音によって呼び起こされた。高校生の頃、彼女は工事現場の近くを通りかかったことがあった。回転を続ける扇風機が粉塵を巻きあがらせる中、彼女は労働者たちが自分に目を向けているように感じ、悪寒を覚えた。彼女は、自分がなぜこんなにも不気味に思うのか分からず、困惑した。そのまま家に帰ると、食事をする力もなく、寝床に倒れてしまった。翌日、高熱が出た彼女は、高校を休まなければならなかった。このエピソードは、決して忘れることのできないものとして彼女の中に溜まった。

 彼女は、なぜこんな些細な思い出が自分を苦しめるのだろうかと自問した。労働者の目線を感じたというだけのことが、なぜこんなに不快に感じられるのだろう? 彼女の分析は、その問いによって舵を取られていた。

 分析家は沈黙を守った。苛立ちのあまり、なぜあなたは理解を示してくれないのかと、分析家に詰問したこともあった。しかしそれでも、望んでいる解決は訪れないのだった。

 事態は、ある日のセッションにおいて動き出した。その日彼女は、再びその記憶を語り始めた。「なぜ、あんな人夫(にんぷ)の視線なんかで……」と彼女が言った時、分析家はただ「人夫?」とだけ聞き返した。すると彼女には衝撃が走り、すぐさま次のような思い出を話し始めたのだった。

 それは、彼女の妹の誕生にまつわるエピソードだった。彼女の母はキャリアウーマンで、毎日遅くまで家に帰ってこなかった。彼女は母親を尊敬していた。母娘の関係は良好で、自分は母の惜しみない愛情を受けていると思っていた。在宅業者の父はほとんどの家事を任されており、自分の妻に対して、いつも控えめだった。「私は父親が何だか分からない……お父さんは弱い人だったから」と彼女は言っていた。彼女と父の関係は、親子というより友人に近いものだった。

 しかしある時母親は、長期休暇を取ったことがあった。二番目の子供を孕み、出産休暇を余儀なくされたのである。幼い彼女は、なぜ母のお腹が大きいのか、そして、なぜ母がずっと家にいるのか分からず、父に質問した。すると彼は「母さんは妊婦だからね」と返答した。

 幼い彼女にはその言葉の意味が分からなかった。それでも「妊婦」というシニフィアンは抑圧され、無意識的なものにとどまった。抑圧されたシニフィアンは、工事現場での出来事において、回帰することになった。この二つの出来事を結びつけていたのは、「ニンプ」というひとつのシニフィアンだった。

 このシニフィアンは享楽と存在の問いに結びつけられていた。母親が妊娠している間、家族の関心は生まれてくる第二子に注がれ、彼女は置き去りにされたように感じだたものだった。彼女に取って妹の誕生は、母の愛という享楽的な対象を失うことを意味していた。

 「人夫」のシニフィアンを構成する「夫」の文字(レットル)は、彼女に、友達のように思っていた父親が、あくまで男性であったことを実感させた。父親はただ「弱い人」ではなく、人の夫として、彼女の母を妊娠させる能力(ポテンシャル)を持っていたのである。自分の父親が不能インポテンツ)であるという幻想(ファンタスム)は、母の妊娠というエピソードによって破られてしまったのだった。母が愛していたのは自分だけではない、彼女は父を愛しているのだと知ることは、彼女にとって受け入れがたいことだった……。

『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』(片岡一竹 著,2017,誠信書房,p94-95)より引用

 

 このように、「抑圧されたシニフィアン」(上の例では「ニンプ」)は、「妊婦」→「ニンプ」→「人夫」というように自らの形を変えて、いわば「変装」して、症状として回帰する。精神分析では、この「抑圧されたシニフィアン」(図1で言えば◯)と「変装し回帰してきたシニフィアン」(図1で言えば△)の間の繋がりを見いだすことが重要とされている。ちなみに、なぜシニフィアンは回帰するのか、というその目的論的メカニズムは未だよく分かっていないらしい。

 

 ここで『木野』という物語の基本構造を取り出してみる。物語内の大きな出来事を時系列順になぞると以下のようになる。

 


①木野は妻が自分の同僚と寝ている現場を目撃してしまう

②木野は仕事を辞めてバーを開く

③猫が店に現れるようになる

④神田が店に現れるようになる

⑤火傷の女が現れる。関係をもつようになる

⑥妻と離婚の手続きのために顔を合わせる

⑦猫が消え、蛇が現れる。火傷の女も現れなくなる

⑧神田から遠くへ行くように指示される

⑨「窓を叩くもの」が現れる

 


 ここでは①⑥⑨に注目する。⑨のシーンでは作中でもっとも重要と思われる一節がある。それが以下である。

 

「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。蛇たちはその場所を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている。

(『女のいない男たち』文春文庫版より引用,p271)

 


 このシーンでは木野が「窓を叩くもの」に恐怖し、怯えながら、自らの内面と向き合う様が描かれている。「傷つくべきとき」とはストレートに考えれば「妻の不倫を知ったとき」だが、「現場を目撃したその瞬間」という意味ではなく、もっと長いスパンとして捉えるべきだろう。そして「十分に傷つかなかった」ことによって木野の心は虚ろなものになり、「蛇」たちの隠れ家になろうとしている。おそらくは「窓を叩くもの」は木野が「傷つくべきときに十分に傷つかなかった」ことを原因として現れたものである。なぜなら「それ」が発する「目を背けず、私をまっすぐ見なさい(…)これがおまえの心の姿なのだから」(p275)という言葉をそのまま素直に受け取れば、「それ」は木野の心の「本来あるべき形」、つまり木野という引き受け手を失った「傷」が形を変えたものであると考えられるからである。

 木野は⑥のシーンで妻に「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と尋ねられ、そこで自らの傷を、自分がどれだけ傷ついているかを、自分の心のダークサイドの存在を十分に認めようとしなかった。神田が言う「正しいことしなかった」(p262)とはこのことであると思われる。そして主人を失った「傷」は、木野の元に戻ってこようと熊本のビジネスホテルの8階の窓を叩く。

 この構図(図2)は、先に触れた図1「抑圧されたものの回帰」の構図と以下のように対応している。

 

  • 「妻の不倫」「傷」↔︎「受け入れがたいシニフィアン(表象)」
  • 「傷つくべきときに充分に傷つかないこと」↔︎「抑圧」
  • 「窓を叩くもの」↔︎「無意識の形成物」

 

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 図1と図2には相似性が認められる。『木野』を「認められなかった『傷』が『窓を叩くもの』に姿を変え、木野の元に帰ってくる」という物語であると解釈すれば、精神分析における「抑圧されたものの回帰」の構造と対応していると考えることができる。

 なお「蛇」については、「窓を叩くもの」と全く同種のものではない、つまり「抑圧されたものの回帰」の構造とは直接には対応するものがないと思われたので、ここでは扱わない。


 また、村上春樹は2016年にデンマークで行われた「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞授与式」におけるスピーチ『影の持つ意味』の中で、アンデルセンの作品『影』にちなんで、以下のように語っている。

 

 

 我々は時としてそのような影の部分、負の部分から目を背けがちです。あるいはそのような部分を力で排除してしまおうと試みます。人は自らの暗い部分を、負の資質を、できるだけ目にしたくないと望むものであるからです。しかし塑像が立体として見えるためには、影がなくてはなりません。影なくしては、それはただ平板な幻影となってしまいます。影を生まない光は、本物の光ではありません。

 どれほど高い壁を築いて侵入者を防ごうとしても、どれほど厳しく異分子を社会から排斥しようとしても、どれほど自分に都合よく歴史を作り替えようとしても、そのような行為は結果的に我々自身を損ない、傷つけるだけのことです。あなたは影と共生していくことを、辛抱強く学ばなければなりません。自分自身の内部に存在する闇をしっかり見つめなくてはなりません。ときには暗いトンネルの中で自らのダークサイドと対決しなければなりません。もしそれができなければ、やがて影はもっと大きく強い存在となって戻ってきて、ある夜、あなたの住まいのドアをノックすることでしょう。「さあ、戻ってきましたよ」と。(『MONKEY vol.11』p146,スイッチ・パブリッシング

 

 


 このスピーチは一見するとアンデルセンの『影』のことについて語っているようだが、かなり直截的に『木野』という物語の構造を明かしているようにも見える。つまりここで言われている「影」「闇」とは『木野』における「傷」のことであり、「傷を受け入れなければ、それは別の形で帰ってきて主人をより深く苦しめる」ということを、村上はここでも語っているのだ。


 このように、『木野』の物語は「抑圧された、排除された、認められなかった『傷』が姿を変えて主人の元へ帰ってくる」という構図として捉えることができ、それは精神分析における「受け入れがたいシニフィアン(表象)が自我の検閲をくぐり抜け、別の形で再び浮かび上がってこようとする動き」、すなわち「抑圧されたものの回帰」の構図と重なるのである。

*1:言葉の「音」の側面。たとえば「犬」のシニフィアンは「inu」という発音のこと