『石のまくらに』について

『石のまくらに』について

 

 前回に引き続き、学生のときに書いたものを載せる。せっかく書いたものだし、いつまでもMacのデータ内に置きっぱなしのままにしておくのもなんとなくもったいない気がしたので、拙文ながら衆目に晒してみる。

 

 

  1. はじめに

 

 文藝春秋が発行する文藝誌『文學界』の2018年7月号に、村上春樹による3作の短編小説が掲載された。短編はそれぞれ『石のまくらに』『クリーム』『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』と題され、『三つの短い話』という表題で括られている。

 本稿では、その中のひとつ『石のまくらに』を取り上げる。物語のあらすじをまとめ、作中にある「短歌」が物語のなかでどのような意味や機能をもっているのかを考察する。

 なお、引用元のページ数は、掲載誌記載のページ数に準拠する。

 

  1. あらすじ

 この小説は大きく4つのシークエンスに区切ることができる*1。したがって、わかりやすくするために各シークエンスごとに分けてあらすじを書くことにする。先に、各シークエンスの範囲を明記しておく。

 

 シークエンスA:p10冒頭から、p11中央「……音のなさ、なさ」まで

 

 シークエンスB:p11の台詞「ねえ、いっちゃうときに……」から、p17「……ただそれだけのことなのだ」まで

 

 シークエンスC:p17「その一週間後に……」から、p20「……光にさそわれ/影に踏まれ」まで

 

 シークエンスD:p20「彼女が今でもまだ……」から、結末まで

 

 シークエンスAでは、この物語が「回想録」であることが示されている。語り手である「僕」が、顔も名前も覚えていないというある一人の女性について語り始める。

 「僕」と彼女は「僕」が大学二年生、19歳のときに同じアルバイトで知り合い、ふとした成り行きで一夜を共にすることになるが、そのあと一度も顔を合わせていないという。彼女はおそらく20代の半ばで、短歌をつくっており、一冊の歌集を出版していた。最後に短歌が2首インサートされる。 

 

 シークエンスBでは、「僕」と彼女が一夜を共にする様子と、その前後の出来事が描かれる。彼女がアルバイトを辞める際に開かれた飲み会の帰り道に、彼女は家が遠いから「僕」の家に泊めてほしいと言う。彼女は「僕」との性行為に及ぶ際に「ねえ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それは構わない?」と尋ねる(p11)。彼女はその男が好きなのだが、男にはほかに恋人がおり、性交目当てで都合よく彼女を呼び出すのだという。「僕」は壁の薄いアパートで声が漏れると困るといい、彼女がその男の名前を呼ぼうとするとタオルを口に噛ませる。

 翌朝、彼女は自分が短歌を書いているということを話す。タオルには彼女の歯型がくっきりと残っていた。彼女は歌集を後日送ると言って、「僕」の名前と住所を控える。彼女の服にはスズランのブローチがついていた*2

 

 シークエンスCでは、彼女から送られてきた歌集について語られる。「僕」はそれが本当に送られてくるとは期待していなかったが、一週間後に『石のまくらに』と題された歌集が届く。歌集は簡素なつくりで、作者の名前は「ちほ」と記されていた。「僕」はその週末の夕方*3に歌集のページを開く。そこには42首の短歌が収められていた。そのうちの8首ほどは、「僕」の「心の奥に届く何かしらの要素を持ち合わせていた」(p19)。ここで短歌が2首インサートされる。その歌集を読んでいると、「僕」は彼女の身体を克明に思い出すことができた。最後に短歌が2首インサートされる。

 

 シークエンスDでは、「回想録」が終わり、時制が「現在」に変化する。「僕」は彼女の書く短歌の多くが死をイメージしていることから、彼女がもう生きてはいないのではないか、どこかの地点で自らの命を絶ってしまったのではないかと感じることがある、という。短歌が1つインサートされる。「僕」は彼女が今も生きて短歌を詠み続けていることを願い、時間の流れの速さや、それに伴い多くのものごとが消え去っていくこと、その中でいくつかの言葉だけが残るということに想いを巡らせる。最後に短歌が1首インサートされる。 

 

 3.  短歌についての疑問点と解釈

 

  村上春樹の作品に「短歌」が登場するのは初めてのことである。村上はかねてより自分にとっての短編小説を「実験場」と位置づけており、今作の短歌も村上にとってのひとつの実験であり新しい挑戦だと考えられる。以降では、今作において短歌がどのような意味を持っているのか、どのように機能しているのかについて考えていく。

  

 3-1. 「石のまくら」と「首」について

 

 まずは大きなポイントから考えていく。それはこの短編のタイトルでもあり、「ちほ」が上梓した詩集のタイトルにもなっている「石のまくらに」という言葉だ。「石のまくら」という言葉が含まれている短歌は作中に2首登場する。のちに参照しやすいようにそれぞれ番号をふって以下に引用する。 

 

 ①石のまくら/に耳を当てて/聞こえるは 

  流される血の/音のなさ、なさ(p11)

 

 ②たち切るも/たち切られるも/石のまくら 

  うなじつければ/ほら、塵となる(p23)

 

 「石のまくら」とは何か。調べてみると、「死者の頭を支えるために用いられた石製の枕。モンゴルの青銅器文化にもみられる。日本では古墳時代の中期、後期に多く用いられている」*4とある。作中にも「彼女のつくる短歌のほとんどは、男女の愛と、そして人の死に関するものだった」(p11)、「詠まれた歌の多くは—少なくともその歌集に収められていた短歌の多くは—疑いの余地なく、死のイメージを追い求めていた」(p21)とあるように、「石のまくら」という言葉は「死」(それも古墳時代の「古代の死」である)に関連するイメージとして使われている。 

 

 「死」を連想させる短歌はほかにも登場する。 

 

 ③やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく 

  あじさい*5の根もとに/六月の水(p20)

 

 ④午後をとおし/この降りしきる/雨にまぎれ 

  名もなき斧が/たそがれを斬首(p21)

 

 これらの短歌には「死」のなかでもとりわけ「首を刎ねられる」「斬首」といった具体的な死の形があらわれている。これらが「死」を表象していること、その中でも「石のまくら」という言葉が「古代の死」を暗示していることや、「首を刎ねられる」といった具体的な死のイメージはこの小説内でどのような意味をもっているのだろうか。

 

 まずは「石のまくら」という言葉について考えてみよう。シークエンスDにおいて「僕」は時の流れが多くを消し去っていくなかでいくつかの言葉だけが残る、と言う。「いくつかの言葉」とは、この場合「ちほ」のつくった短歌のことを指している。そしてこの短編の最後にインサートされる短歌が②である。古墳時代の「石のまくら」にのせられた「古代の死体」は時間の流れとともに塵となって消えてしまう。だが、「ちほ」と二度と会うことがないとしても、彼女が仮に死んで塵になってしまったとしても、彼女の短歌だけはどれだけ時間が流れても「僕」の内部に残り続ける。「しかしなにはともあれ、それはあとに残った。ほかの言葉や思いはみんな塵となって消えてしまった」(p23)。つまり、「石のまくら」というキーワードは、シークエンスDで執拗に語られている「多くのものを消し去る時の流れ」というダイナミックなタイムスパンを示すためのものであり、「石のまくら」が暗示する「古代の死」は「時間の流れの中で消えずに残る言葉(ここでは彼女の短歌)」と対比される「消えていくもの」である。「石のまくら」が大昔のものであるということを理解するだけで、これらの短歌やこの短編全体がより時間的・空間的な広がりをもって感じられるようになっているのだ。

 

 シークエンスDには「……しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ」とある(p22)。前後の文脈からいくらか浮いたこの文章はどのように解釈すればよいのだろう。ここでは、ある言葉を後に残すために差し出さなくてはならないものとして、「自らの身」と「自らの心」と「僕ら自身の首」が同列におかれている。「身と心を無条件に差し出す」「首を石のまくらに載せる」とはどういうことだろうか。文面通りに解釈すれば「死」を意味するように思われるが、より自然な形で解釈するならば、「死」を自らに内在化する、すなわち「死を受け容れる」*6ことが、言葉をあとに残すことができる条件である、ということになるだろうか。言葉が長い時を越えて生きつづけるためには、自らの死を自覚し、受け容れることで「時間性」をメタに認識する必要がある。「自らが消えゆく存在であること」を知ることによって、言葉がいわば「受肉」するのだ。

 

 「斬首」というキーワードは前作の長編『騎士団長殺し』との関連性が指摘できる。「斬首」は『騎士団長殺し』では雨田継彦という人物が「軍の上官からの命令で、捕虜の首を切り落とさなければならない」という形で印象深く登場したモチーフである(雨田継彦はそのトラウマから手首を切って自殺した)。しかし、他者への明確な「暴力」として描かれていたそれとは異なり、ここでは「ちほ」自らが斬首による死を追い求めているかのように書かれており、自殺の可能性が仄めかされている。また、『騎士団長殺し』には「漁港の町の女」が登場する。「漁港の町の女」は「セックスのときに首を絞められることを求め」、主人公にバスローブの紐で首を締められる。それに対して「ちほ」は「首を斬られることを求める女」であり、ここには関連性が推察できる。つまり、「ちほ」という人物と彼女のつくる短歌は、『騎士団長殺し』における「雨田継彦」と「漁港の町の女」という二人の人物がもつ要素のハイブリッドであり、同じ系譜上に位置するものなのではないだろうか。

   また、この短編に登場する短歌にはすべて「/(スラッシュ)」が使われているが、これは「斬首」の「刃」のイメージを喚起させるために意図的に用いられた表記だと考えることができる*7

 

 3-2. 「男女の愛」について

 

 作中でインサートされる短歌は上に示したもののほかにあと4つある。その中で「男女の愛」について詠まれたと思われる歌は以下の3つである。 

 

 ⑤あなたと/わたしって遠いの/でしたっけ? 

  木星乗り継ぎ/でよかったかしら?(p11)

 

 ⑥また二度と/逢うことはないと/おもいつつ 

  逢えないわけは/ないともおもい(p20)

 

 ⑦会えるのか/ただこのままに/おわるのか 

  光にさそわれ/影に踏まれ(p20)

 

 これらに共通して描かれているものは、みてのとおり「ある人とある人との距離感」である。それは「木星」という惑星クラスのスケールで測れるほど遠い存在のようにも思え、ふたたび会うかどうかも定かではないないような相手である。では、その相手とは誰のことだろう。上に引用した短歌のうち⑥と⑦は、「2.あらすじ」では便宜上シークエンスCの最後に含めたが、じつはシークエンスDの頭に含めることも可能であり、実質的にはシークエンスCとDの両方にまたがるようにして作用している。どういうことか。つまり、この2首をシークエンスCの一部に含めれば、「ちほ」と「男」の関係性についての短歌として読むことができ、シークエンスDの一部に含めれば、メタ的に「僕」と「ちほ」の関係性についての短歌として読む(厳密にいうと、「僕」がこの2首を「僕」と「ちほ」の関係性に重ね合わせて読んでいる)ことができる、ということである。要するにダブルミーニングである。「ちほ」が好意を寄せている男は、先に述べたようにかなり都合よく彼女を性的に利用している。しかし「ちほ」はそれを理解していながらその男に献身する。そうするとこの男は「ちほ」にとって「ふたたび会えるかどうか定かでないような相手」とは言えないように思えるかもしれない。しかしシークエンスCの最後、⑥⑦がインサートされる直前で「彼女はオーガズムを迎え、タオルを思い切り噛みしめたまま目を閉じ、僕の耳元で別の男の名前を、何度も何度も切なく呼び続けていた。僕がもう思い出せない、どこかの男のとても平凡な名前を(p20)」と「男」に言及されている文があることから、文脈上⑥⑦を「ちほ」と「男」の関係性についてのものとして解釈することはできる。ここから、この「会えなさ」は物理的な距離というよりも心理的な距離であると解釈することができる。こちらは相手のことがとても好きなのだが、それが完全に一方通行なものであると分かっており、いとも簡単に捨てられてしまうかもしれない、もう連絡してくれないかもしれない、そんな関係性なのかもしれない。そう考えると、⑥は「男から連絡が来ず、ふたたび会えることを半ばあきらめかけている心情」、⑦は「男とまた会えるかどうか、期待(=「光にさそわれ」)と落胆(=「影に踏まれ」)を行ったり来たりしている心情」として読むことができる。「僕」はシークエンスDにおいて、心理的な距離ではなく物理的な距離としてこの2首に自分自身と彼女の距離を重ね合わせており、また読者もそう読めるように書かれているのだ。

 

 3-3. 「今」について

 

 もうひとつ、「死」とも「男女の愛」とも明確にカテゴライズできない短歌が登場する。それが以下である。

 

 ⑧今のとき/ときが今なら/この今を

  ぬきさしならぬ/今とするしか*8(p19)

 

 これはほとんどナンセンスなトートロジーのようにも感じられ、この短編のどの部分と関係しているのか一見しただけでは見当もつかない。しかし必ずなにか意味があるはずだ。まず「ぬきさしならぬ」という部分に注目してみる。「この今」を「ぬきさしならぬ今とする」とはどういうことだろう。また、ここでいう「ぬきさしならぬ」とはどういう意味なのか。次のように考えられる。「ぬきさしならない」を辞書でひくと「身動きがどれず、どうにもならない。のっぴきならない*9」とある。同義語である「のっぴきならない」は「引き下がることも、避けることもできない。進退きわまる。どうにもならない*10」という意味である。引き下がることも、避けることもできないもの。それはなにか。「今」である。「未来」は一瞬ごとに「今」になりつづけ、「今」は常に消滅しながら「過去」になりつづけている。「この今」は次の一瞬には消えてなくなるしかない。そしてこの摂理は誰にも変えようがなく、「どうにもならない」のである。このことを踏まえて⑧を読むと、この短歌は「今はぬきさしならない状況である」と言いたいのではなく、「今というものはどうしようもなく消えて行ってしまう、ぬきさしならないものである」と言いたいのではないかと考えられる。つまり⑧では、「今」という概念の「あり方」そのもの、その「刹那性」を「ぬきさしならぬ」と形容している、というふうに解釈できる。もちろんその「ぬきさしならない刹那性」は、「石のまくら」が指し、またシークエンスDで語られる「多くのものを消し去る時間の流れ」と呼応しているのだ。

 

 4.  まとめ

 

 これまで、作中に登場する8首の短歌がどのような意味をもち、どのように機能しているかを論じてきた。ここではそれらを簡単にまとめる。

 

 ①②は「石のまくら」という言葉について考察した。「石のまくら」とは古墳時代に用いられた「死者の頭を支えるための道具」であり、これは「古代の死」を暗示していると同時に「多くのものを消し去る時間の流れ」をあらわしている。また、シークエンスDにある「言葉をあとに残すためには、僕ら自身の首を石のまくらに載せなければならない」というような意味の文章は、「言葉が生きつづけるためには、自分が死んで消えていく存在であることを受け容れなければならない」と解釈した。

 

 ③④については、「斬首」をキーワードに、『騎士団長殺し』との関連性を指摘した。『騎士団長殺し』には「捕虜の首を斬らされて自殺した雨田継彦」「セックスの最中に首を絞められることを求める女」が登場し、ここに「ちほ」との共通点を見出した。また、短歌に「/」が用いられているのは「斬首」の「刃」をイメージさせるためであると考えた。

 

 ⑤⑥⑦は「ある人とある人との距離感」を表現したものである。これは「ちほ」と「男」という組み合わせと、「僕」と「ちほ」という組み合わせとで二重に意味付けされている。ここではとくに「ちほ」と「男」の関係性について考察した。

 

 ⑧は「ぬきさしならぬ」という部分に注目し、これが「今」という概念の刹那性について詠まれた歌であると解釈した。そしてそのように解釈すると、小説全体、とくにシークエンスDの内容や「石のまくら」が示す「時間の流れ」と呼応することがわかった。

 

 こうしてみると、『石のまくらに』という新作短編は「時間」がテーマのように思われる。そして『騎士団長殺し』でも「時間」に関する見解のようなものが頻出していた。それ以前の作品にもそのような要素がないわけではないが、ここまで明確に前景化してきたのは「近年の傾向」と言っていいだろう。

 

 「短歌」という村上の実験は、わずか13ページの短編をこのように重層的かつ様々なファクターに結びついた、広がりをもった物語に仕立て上げたという点において、成功したのではないだろうか。

*1:これはあくまで「シークエンスの切り替わり」を基準にした区切り方であり、ほかの基準による区切り方も当然あり得る。

*2:「スズラン」は美しい見た目とは裏腹に、人を死に至らしめるほどの強い毒性をもった花である。ここにも「死」や村上作品に頻出する「見た目と中身のずれ」の要素が絡んでいる。

*3:この「夕方」とはいわゆる「逢魔時(大禍時)」、つまり死の世界との「あわい」を暗に示唆している。

*4:コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 より引用(7月11日閲覧)

https://kotobank.jp/word/石枕-30634

*5:あじさい」も有毒植物である。また、「水」というキーワードは『騎士団長殺し』において小説全体に底流していたモチーフのひとつである。

*6:『クリーム』でも、キリスト教の宣教をする車が「人はみな死にます」「すべての人がいつかは死を迎えます。この世界に死なない人はひとりもおりません(p30)」と言っている。

*7:短歌の区切りにスラッシュを用いるのは、それほどポピュラーな手法ではない。

*8:筆者がこの短歌を読んで真っ先に連想したのは『騎士団長殺し』の第二部、51章の章題であり騎士団長の台詞である「今が時だ」であった。この章題は『騎士団長殺し』の章題のうちもっとも短く、読者にひときわ強い印象を与えると同時に、章の内容もまた強烈なインパクトを与えるものであった。そしてそこでは騎士団長が「自ら殺されることを求め」、まさに「ぬきさしならない」状況が描かれている。ここには本短編および⑧との何らかの関連性が見出せる。

*9:Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/抜き差しならない より引用(7月15日閲覧)

*10:Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/のっぴきならない より引用(7月15日閲覧)