『騎士団長殺し』における「みみずく」についての連想ゲーム

 『騎士団長殺し』における「みみずく」についての連想ゲーム

 

 先に言っておくとこの文章はまともに作品を論じたり解釈したものではない(まあいつもそんな感じだけど)。全部俺の単なる思い付きであり、ほぼこじつけに近い。なんとなく「免色」って漢字が「兎」と似てるなーというところから色々考え始めたらなんかよくわかんないけど色々繋がってんじゃん、というだけのお話である。ただの戯れだが個人的にはちょっと面白いなと思ったので書いてみた(実際にこれ書いたのは2年くらい前だけど)。

 

 じゃ以下。

 

 

 「みみずく(ふくろう)」は文化や時代ごとに、「不吉」と「幸運」の両方のイメージを持たれてきたとされている*1

 『騎士団長殺し』の中でも、雨田政彦が「みみずくが家に住み着くのは吉兆」だと言いつつも、「Blessing in disuguise(偽装した祝福)=一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの」の「逆」=「一見喜ばしそうに見えて実は不幸なもの」がある、と発言している(第一部142頁)。『騎士団長殺し』においても、みみずくは両価的存在なのだ。


 ここで、『騎士団長殺し』においてみみずくを中心に様々なアイテムやファクターがどのような連関にあるのかを整理してみる。


 上記の雨田政彦の発言は、文脈上「Blessing in disguise」の「逆」=「一見喜ばしそうに見えて実は不幸なもの」が「みみずく」を指していると解釈できる。だが、それが指し示しているのは「みみずく」だけだろうか。『騎士団長殺し』において、「一見喜ばしそうに見えて実は不幸なもの」。それを体現するようなキャラクター。つまり「免色」もそれに該当するのではないか。

 免色は身なりもよくハンサムで、恐ろしい金持ちであり、瀟洒な豪邸に住み、たいして働きもせずに何不自由ない生活を送っている。側から見ればなんとも羨ましい生活だ。しかしその内面には尋常ならざる屈折のようなものがある。まさに「一見喜ばしそうに見えて実は不幸」なのだ。

 

 さて、話は変わるが、「みみずく」は漢字にすると「木兎」だ。兎(うさぎ)のような「耳(羽角)」を持って木に停まっているからだろうか。また、兎の漢字は「兔」とも書き、「免色」の「免」という字とよく似ている。そして免色は「白」という色を背負っており、頭髪も家も真っ白である。

 ところで、われわれは「兎(うさぎ)」というとまず何色を思い浮かべるだろうか(私は白いうさぎを真っ先に思い浮かべる)。


 兎とみみずくの外見的特徴である「耳」も「聴覚」という意味として捉えると、新たな対応関係が浮かび上がる。作中、穴の中から鈴の音が聞こえてくる場面では、聴覚的な描写が非常に細かくなされている。またその穴から出てきたという騎士団長(イデア)の姿は「私」にしか見えず、声も「私」にしか聞こえない(騎士団長はよく「私」の耳元で何ごとかを囁く)。「耳(聴覚)」はこの作品の中で啓示のような役割を果たしていることからも注目すべき点である。


 みみずくと騎士団長は、物語の超越的な部分に位置する者たちであり、メタな視座から物語全体を見下ろしているような印象を受ける。また、作中で騎士団長が「みみずくのように」という比喩で表されることが多い点から、何らかの意味的関連性を持たされていると考えられる*2


これらの関係を図にするとこんな感じである。

 

 

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 ※実線は作品内における意味的な対応・指示関係を表し、破線はイメージ(字の形や実際の外見)の類似および連想を表す。

 

 

 矢印によって結ばれた関係を一つずつ整理していく。


「Blessing~」→「みみずく」:第一部142頁の雨田政彦の台詞から。みみずくが「不幸なもの」である可能性を示唆している。


「Blessing~」→「免色」:「一見喜ばしそうに見えて実は不幸」という言葉が免色と重なる


「免色」↔「白」:免色は頭髪も自宅も真っ白で、白というイメージカラーを背負っている


「兎」⇨「白」:うさぎといえばたいていの場合白いイメージである


「兎」⇔「免色」:字面がよく似ている


「兎」「みみずく」⇨「耳(聴覚)」:うさぎとみみずくの外見的特徴といえばその耳である


「みみずく」⇨「兎」: 同じ漢字が含まれており、どちらもその耳が外見的な特徴である


「みみずく」↔「騎士団長」:作中で関連性を示唆するように描写されている


「騎士団長」↔「耳(聴覚)」:騎士団長の鳴らしていた鈴の音や、騎士団長の囁き声など、聴覚的描写が重要な役割を果たす

 

 このように整理してみると、「みみずく」ひとつとっても様々なファクターと複雑な関連にあることが分かる。これらの中には小説的なテクニックや遊び心やただの思いつきによるものも含まれるかもしれないが、全てが意図されたものであるとはちょっと考えにくい。

 だからと言って偶然という一言で済ませるのも面白くないので結論っぽくまとめると、こういったイメージや意味の関連性は、村上が小説を書くにあたって深く降りていった「地下二階」の領域に存在するものなのかもしれない。それらは「地下二階」で深く結びつき合っている。村上がそのイメージたちを掘り起こし、小説という形にすることによって、物語の重要な有機的ファクターとして起動したのかもしれない。

 このような、「ばらばらに配置されたはずのものが何か意味をもっているかのように繋がりをもって現れてくること」をユング心理学では「布置 constellation」と呼ぶ。

 村上春樹の作品では時折このような「布置」が描かれる。『東京奇譚集』収録の「偶然の音楽」という短編もまさに「布置」(あるいは「共時性 synchronicity」)の物語である。

 「できすぎた偶然」が物語の中でのみならず、そこからはみ出し、現実レベルで顕現するような出来事は不思議と存在する*3スピリチュアリズムを掲げるわけではないが、「物語の力」は時折そのような形で作用することがあるのかもしれない。少なくとも村上春樹の小説を読むとき、俺はいつも、どこかそういう感触を覚える。

 

*1:古代中国では、母親を食う不孝な鳥とされ、冬至にとらえて磔(はりつけ)にし、夏至にはあつものにして、その類を絶やそうとしたという。『五雑俎(ござっそ)』にも、福建などでは、フクロウは人間の魂をとる使者といわれ、その夜鳴きは死の前兆とされたとある。わが国江戸時代の『本朝食鑑』には、人家に近くいるときは凶であり、悪禽(あくきん)とされ、あるいは父母を食い、人間の爪(つめ)を食うと記す。西洋でも、フクロウは不吉な前兆を表す鳥とされ、古代ローマの皇帝アウグストゥスの死は、その鳴き声で予言されていた。ユダヤの律法を記す『タルムード』は、フクロウの夢が不吉であることに触れているし、『旧約聖書』の「レビ記」はけがれた鳥に数えている。しかし、古代ギリシアでは、アテネを守護する女神アテネの鳥として信仰され、現代でもアテネの神格を受け、知恵と技芸の象徴に用いられる。フクロウを集落の守護者とする信仰もある。北アメリカの先住民ペノブスコット人は、縞(しま)のあるフクロウは危険を予知し、警告するとし、パウニー人は夜の守護者といい、チッペワ人は剥製(はくせい)のフクロウを集落の見張り役とした。北海道のアイヌ民族は、シマフクロウを飼育し、儀礼的に殺して神の国に送り返す、シマフクロウ送りの行事を行う」 コトバンクhttps://kotobank.jp/word/フクロウ-124187 より引用

*2:第一部21章では、「形体化していないあとの時間は、無形のイデアとしてそこかしこ休んでおる。屋根裏のみみずくのようにな」(352頁)、「そして騎士団長は今ではこの家の中に住み着いている。屋根裏のあのみみずくと同じように」(354頁)、「眠り込む前にふとみみずくのことを考えた。みみずくはどうしているだろう?」(355頁)と、三度にわたって「みみずく」というワードが出てきており、うち二度は「騎士団長」が「みみずくのようである」と比喩されている。また「眠るのだ、諸君、と騎士団長が私の耳元で囁いたような気がした。しかしそれはたぶん夢の一部だったのだろう」(355頁)とあるが、この部分は第一部6章の最後「夜中にみみずくの動き回るがさがさという音を聞いたような気がした。しかしそれは切れ切れな夢の中の出来事だったかもしれない」(115頁)という部分とよく似ている。

*3:「偶然の音楽」は村上自身が体験したという「できすぎた偶然」についての話で、作中に「乳がんを患った女性」が登場するのだが、俺がたまたまその短編を読んでいたその日、母親から「乳がん検診に行ってきて、あまり良い結果ではなかった」という電話が掛かってきたときは寒気がした。また大学の心理学の講義中に、あまりにもつまらない講義だったため『1Q84』を読んでいた(初読)ところ、作中でユング集合的無意識についてのくだりが語られ始めたその瞬間、講師がユング集合的無意識について話しはじめたこともあった