ビデオゲームに心を救われて何が悪い

 あいもかわらず心の底に鉛が沈んでいるような毎日を送っている。休みの日は何もする気になれないし、何をしても気分が晴れない。ただ息をして飯を食っているというだけで、生きているという感じがしない。いや、生きているからこその苦痛を感じているのだが、そこにはヒリヒリとした切迫感のようなものがなく、ただ緩慢で気怠い痛みが全身に纏わりついているだけだ。

 刺激を求めて何かできるだけ人に迷惑をかけない犯罪行為にでも及ぼうかと半ば本気で考えたりもしたが、馬鹿馬鹿しくなってやめた。自分が何に苛ついているのかも判然としないこの状況に苛ついている。

 

 外に出る元気がないので、ここ最近はゲームをよく遊んでいる。といっても『あつ森』などの大型タイトルではなく、Nintendo Switchにて配信されている世界各国のインディーズゲームだ。

 その中のいくつかは本当に素晴らしい出来で、荒んでしまった俺の心をいくらか勇気づけてくれた。ひとつずつ紹介したい。ネタバレあるかも。

 

1. 『ナイト・イン・ザ・ウッズ』

 

 絶賛相次ぐ大傑作アドベンチャー。大学を中退し、衰退していくばかりの田舎町に帰ってきた主人公メイ。旧友のビー、グレッグ、アンガスらと遊んで過ごすが、町には不気味な事件の影が潜む。メイは過去にクラスメートに暴行を加え入院させており、心に問題を抱えていることが仄めかされる。ビーは家庭の事情で高卒で働くことを余儀なくされ、自分が憧れていた「大学」をあっけなく中退したメイに複雑な感情を抱いている。グレッグとアンガスはゲイのカップルで、2人で町を出ることを夢見て働いている。町に住む人々それぞれに生活の苦悩や心の葛藤があり、それは時として強烈に生々しく、切実に描かれる。誰がプレイしても「こいつは自分だ」と思ってしまうようなキャラクターが1人はいるはずだ。

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主人公メイと主な舞台となるポッサム・スプリングの町

 しかし今作はそこまで暗い作品ではない。キュートなビジュアルや美しい音楽はシナリオのもつ鬱屈した雰囲気をうまく中和しており、ユーモアに溢れた会話の数々にクスリとさせられる場面も数多い。そして何より、最後には希望が描かれる。その希望は不確かなものかもしれない。世の中も自分も、過去も未来も現在も、何もかもすべてがクソったれで最悪だとしても、人はいつか大人になるし、働いて金を稼ぎ、飯を食って生きていかなくてはならない。最後に残る微かな希望は諦めと裏表の関係だ。そう、世の中はクソだ。自分もクソだ。それでもその痛みを背負って生きていくことは、何も感じないよりマシなはずだ。

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 『ナイト・イン・ザ・ウッズ』が描いているのは絶望ではない。かといって解像度の粗い希望を押し付けているのでもない。暗く塞がれた状況にあってもなお、「ただ生きる」人々を肯定し、彼らに温かく優しい眼差しを注いでいるのだ。このゲームのエンディングを迎えたとき、プレイヤーは心の奥に小さな、しかし暖かい火が灯るのを確かに感じるだろう。

 

2. 『Celeste』

 

 ハードコア鬼畜2Dプラットフォームアクション。主人公の女の子マデリンが不思議な山「セレステ山」をひたすら登り続けるという設定。

 恐ろしく難しい。とにかく気がおかしくなるほど死ぬ。死にまくる。同じ場所で100回くらい死ぬこともあり得る。ストーリーをクリアするまでの7時間で1500回くらい死ぬなんてのはザラ。かなり意地の悪い仕掛けが山のように次々と現れるのだが、リスポーンがスムーズなためそれほどストレスは感じない。グラフィック、音楽も非常に美しい。

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 アクションの鬼畜さにばかり注目されがちな作品だが、なんといってもストーリーが秀逸。主人公マデリンは何らかの精神疾患を抱えており、もう1人の自分、即ち自らのダークサイドを克服していく様が描かれるのだが、その克服の過程とゲームの難しさそのものが持つ意味合いがリンクしているのだ。言い換えれば、作品がもつメッセージと、プレイヤーが実際に得るゲームプレイの体験が乖離していないのだ。

 このゲームは9割がプレイヤーの失敗で構成されている。何度も何度も、数え切れないほど失敗する。しかし失敗していくなかで「難しすぎる、絶対できない」と思われた難関はやがて「もしかしたらいけるかも」「もうちょっとでできそう」に変わっていく。そしてひとつひとつ、ゆっくり少しずつ先に進んでいく。それがこのゲームがもたらす体験だ。

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更なる狂気の難度を叩きつけてくる「B面」。ひとつのチャプターで612回死んでいる。

 これは心の病に対するアプローチにも通じる。例えば強迫症などに広く用いられる認知行動療法とは上のように「絶対できない」を少しずつ「できそう」に変えていく地道な作業だ。その途中で何度も失敗することもある。依存症の治療などについても同じことが言える。数え切れないほど失敗しても、諦めずに再び挑まなくては治療には至らない。

 諦めないためにまず必要なのは、何度も失敗することを自分に許すことだ。そうして初めて人はほんの少しずつでも前に進むことができる。

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マデリンのダークサイド。セレステ山に登ろうとするマデリンを引き止めようとする

 『Celeste』は心の病に対するアプローチについて真に示唆的なメッセージを与えてくれている。「何度でも失敗することを自分に許すこと」、「ほんの少しずつでも前に進むこと」、「自分のダークサイドを受け容れること」。たとえ精神の疾患に苦しんでいる人でなくても、苦難に満ちた人生を歩むうえでこれらのメッセージは確かなヒントになるはずだ。

 

3. 『Sayonara Wild Hearts』

 ポップでカラフルなリズムアクション。恋に破れた少女の心は崩壊し、少女は時速300kmの精神世界でもう一人の自分(たち)と対峙する。

 上で紹介した2作品ほどはっきりとした骨太なストーリーがあるわけではないものの、バラエティ豊かなアクションや、エレクトロ・ポップ・サウンドに彩られた素晴らしい楽曲の数々によってただひたすら楽しいゲームとなっている。

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基本となるバイクアクション。コースに散りばめられたハートを拾うとスコアになる

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バイクに銃がつき、シューティング要素のあるステージ

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車も運転できる。キャプチャ画像では本作のスピード感を伝えられないのが残念

 そして何より、この作品が放つあまりにストレートでシンプルなメッセージには心打たれてしまった。このゲームのタイトルが示すとおり、少女は自分の心に打ち勝ち、失恋の傷から回復するのだが、そのエンディングはまるでプレイヤーに「大丈夫。きっとその傷もいつか癒えるよ」と優しく、力強く語りかけているかのようだった。「さよなら、砕け散った心の破片たち。ーそう思える日がいつか来るよ」と。少なくとも俺は今作からそんなメッセージを受け取ったし、このゲームに心を励ましてもらった、慰めてもらったような気持ちになった。失恋して落ち込んでいる人にお勧め。

  なお今作はサウンドトラックが抜群に良い。心が浮き足立つような四つ打ちのエレクトロポップはあまりに強烈でダンサブル。楽曲単体で聴いても素晴らしいが、ゲームプレイ中に流れるこれらのサウンドは演出との相互作用によりかなりの快楽をもたらしてくれる。


Begin Again - Sayonara Wild Hearts OST

 

 

 この数ヶ月でいろんなインディーズゲームを遊んだが、その中でも個人的に感情を揺り動かされた3作を紹介した。ビデオゲームは浪費的な趣味かもしれないが、時として人の心を癒す力も秘めている。生きること、傷つくこと、その中に何かを見出すこと。いくつかのゲームは、遊びという体験の中にそうした人生の妙味のようなものを内包している。それらは暗く閉ざされた心に、ふっと風が通り抜けていくような、小さな明かりが灯るような、そんな感覚をもたらしてくれる。苦しみに満ちた人生の中で、ユートピア的な仮想世界としてのゲームに身を委ねるのも悪くないが、「現実に」生きる力を与えてくれるゲームもこの世にはたくさんあるのだ。

 Nintendo Switchはインディーズゲームの宝庫だ。『Coffee Talk』や『Baba Is You』『返校-Detention-』『Cuphead』など傑作の数は枚挙に暇ない。しかしやはり、ここで触れた3作品は、ただ傑作なだけではなく、俺にとって特別な意味を持つ作品になるだろう。