ホラー映画が好きだ

ホラー映画が好きだ。なぜ好きなのか自分でもあまりよくわかっていないが、スクリーンの中で登場人物が無惨に殺されたりするのを眺めていると、なぜだか生きる力が湧いてくる気がする。

しかしホラー映画は「怖くて、楽しい」ものばかりではない。観終わったあとに「こんな恐ろしいことがもし自分の身に起きたら」と思わせるようなものもある。そしてそういう映画こそホラー映画としては傑作なのだと思う。

 

数あるホラー映画の中でも俺がいちばん好きな作品は、アカデミー賞やカンヌでも評価の高い監督、コーエン兄弟の『ノーカントリー』だ。

 

ノーカントリー』をホラー映画にカテゴライズすることに違和感を覚える人も多いだろう。実際、レンタルビデオ屋の「ホラー」の棚には置かれていないはずだ。「サスペンス」に分類するのが普通だと思う。

しかしこれはれっきとしたホラー映画だ。この分類は『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』(荒木飛呂彦,集英社新書)に倣っている。

本書で荒木(俺はジョジョオタなので本当は「先生」と付けなければならないのだが、敬称は略す)はホラー映画をこう位置付けている。

「人を怖がらせるために作られた」映画。それが何よりもまず、僕にとってのホラー映画です。

(…)つまり「社会的なテーマや人間ドラマを描くためにホラー映画のテクニックを利用している」と感じさせる作品よりも、まず「怖がらせるための映画」であって、その中に怖がらせる要素として「社会的なテーマや人間ドラマを盛り込んでいる」作品。それこそがホラー映画だというわけです。

(…)定義というよりも願望として、ホラー映画は何よりもまず恐怖を追求するものであってほしいですし、ホラー映画と認められるのはそういう作品なのです。(「まえがき」13-15)

この「願望」に照らせば、『ノーカントリー』はホラー映画であると俺は思う。それも正真正銘のホラー映画だ。

ノーカントリー』がどんな作品かを簡単に説明する。

モスという男が偶然大金の入ったケースを見つけネコババする。しかしそれはギャングの金で、モスはギャングに雇われた殺し屋シガーに追われる身となる。シガーは行く先々で罪のない人をも次々と殺していき、やがてモスに近づいていく。

…というのが大まかなストーリーなのだが、今作を「ホラー映画」たらしめているのはこのハビエル・バルデム演じる「殺し屋シガー」の存在である。

変な髪型で終始無表情に淡々と人を殺していく様はさながら「死神」のようでもあり、何の罪もない人が次々とシガーに殺されていく光景は「不条理」そのものだ。そもそも冒頭の看守絞殺シーンからして最高にイカれている。前頭葉欠落してる感が半端ではない。怖すぎ。

 

さて、このシガーという恐ろしいキャラクターは何を象徴しているのか。

 

それは「死と暴力の恣意性」である。

 

かなり個人的な見解だが、これはホラー映画の最も中核的な概念であるように思える。

「恣意性」とは、元はソシュール言語学の用語だが、ここでは「原因と結果に明確な結びつきが存在しないこと」程度の意味と捉えてほしい。つまり、「ある日突然人が圧倒的な死や暴力に曝されるということに、特別な理由も資格もありはしない」ということだ。

ニュースを見ればわかる。通り魔に殺された人々に「通り魔に殺される理由」はない。それは「たまたま」その人だったのであり、「たまたま」自分であったかもしれないというだけだ。

 

ノーカントリー』が「死と暴力の恣意性」を描ききっている理由はこのシガーの行いによるものだけではない。未見の方に配慮してネタバレは避けるが、終盤でシガーの身にあることが起こる。その直前の一瞬の短いカットは「シガーもまた『死と暴力の恣意性』からは逃れられない」ということを意味している。

 

人がある時、突然意味も理由もなく理解もできないような不条理な死や暴力に見舞われる、という出来事は当たり前に現実に存在している。俺たちはホラー映画を観ているとき、スクリーン越しにその「現実」を見ている。映画館からの帰り道、その「現実」が自分の身に降りかからないとは言い切れないのだ。

そう考えたとき、やはり俺は「怖い」と感じる。『ノーカントリー』が傑作であり、ホラー映画であるといえるのは、この「恐怖」を凡百のホラーとは一線を画す形でまざまざと見せつけた点にある。

このようにして、ホラー映画はいつも繰り返し繰り返し俺たちに語りかけているのだ。

「次はお前の番かもしれないぞ」と。

 

「われわれは高層ビルや飛行機の爆発でばらばらになった人体を目にする。そして、明日は自分の番かもしれないという恐怖のうちに生きている。誰もがよくわかっている。こういったことは『醜い』。道徳的な意味だけでなく、肉体的な意味でも。

人生は悲鳴と激怒に満ち、愚か者が語る物語に過ぎないという考えの運命論によって、われわれがそれらの醜さを受け入れるとしても。美的価値の相対性についてまるで知らなくても、これらの場合、われわれは躊躇なく醜を認識するし、この醜を喜びの対象に変えることはできないという事実は消えない。

そこで、われわれは何世紀もの美術がひどく執拗に繰り返し醜を表現した理由を理解するのだ。その声は副次的なものであるかもしれないが、われわれに思い出させようとしたのだ。形而上学者の楽観主義にもかかわらず、この世界には、どうしようもないことだし、悲しいことだが、何らかの悪があると。」

ウンベルト・エーコ『醜の歴史』東洋書林より引用。手元にないのでページ数の記載は省略)