「ゲームのなかの命」は命か? ー『UNDERTALE』について

ゲームを起動し、キャラクターを動かし、モンスターを倒し、世界を救う。それはコンピューターゲーム、とりわけRPGが誕生してから、幾度となく繰り返されてきた。

『UNDERTALE』は、その「ゲームを遊ぶ」という人間の営為そのものに向けて、あるシビアな問いを投げかけた作品だ。

 

『UNDERTALE』はToby Fox氏とごく僅かな協力者たちによって制作されたRPGであり、インディーズゲームながら世界中で大ヒットを記録している作品だ。日本でも非常に人気が高く、熱心なファンが多い。

 

『UNDERTALE』は「ネタバレ厳禁」とされている作品だ。作中に仕込まれたサプライズやトリックにより、プレイヤーはかなり鮮烈な体験をすることになる。そして実際のところ、ネタバレの程度によってはその効果はいくらか損なわれてしまうだろう。

 

『UNDERTALE』のシステムはシンプルなRPGそのものといっていい。ドットで描かれたグラフィック、コマンド式の戦闘……どこにでもある、原始的とも言えるRPGだ。

では何がそんなに鮮烈な体験を引き起こすのか。それはこのゲームが「メタ・フィクション」であり「メタ・ゲーム」であること、つまり「ゲームについて言及したゲーム」であることだ。

メタフィクションのもっともわかりやすい例は「作中のキャラクターが、自分がその作品の中のキャラクターであることを自覚している」「キャラクターが読者(観客)に語りかけてくる」といったものだ。映画や小説、マンガ、アニメ、あらゆる表現のなかでこの手法は繰り返し用いられてきた。この手法により、フィクションをフィクションとして眺めていた読者は、「フィクションであるはずの世界がこちら側の現実世界に侵襲してくる」感覚をもつことになり、「作品」の定義が「これを見ている私を含めた世界」に拡張される。たとえば『ファニーゲーム』という映画では、罪のない家族をなんの理由もなく殺害する男が、突然カメラ目線で観客に向かってウインクするシーンがある。観客はこの瞬間自らが「傍観者」であることに気付き、強い不快感と共になんともいえない居心地の悪さを覚える。『UNDERTALE』には、これとよく似た効果をもたらす演出が散りばめられている。

 

『UNDERTALE』はいわゆる「マルチエンディング」であり、プレイヤーの選択によってストーリーが分岐する。これ自体は特段珍しくない、よくあるシステムなのだが、上述の「メタ要素」によってほかのどんな表現媒体にも為し得ないほど新鮮で切実な体験を生み出している。

具体例を挙げよう。プレイヤーがAの行動をとる。するとその行動Aをしたとき専用のテキスト(キャラクターのセリフ)が表れる。行動Bの場合も同様に「行動Bをしたとき専用のテキスト」が表れる。それだけではない。「行動Aをしたあと、『ゲームをリセットして』行動Bをした」場合、そしてその逆、「行動Bをしたあと、リセットして行動Aをした」場合、「何度もリセットして同じ行動を繰り返した」場合、それぞれに専用のテキストが用意されているのだ。つまり、Toby Foxはプレイヤーのあらゆる行動を予測しているということになる。さらに「通常プレイでは決して侵入できない、ゲームの内部データを操作して侵入したエリア」でも、わざわざ「それ専用」のテキストと妙に凝った演出が用意されている。挙げ句の果てにはプレイヤーだけでなく、「動画サイトで実況プレイを観ている人」に向けたテキストまで存在する始末だ。ちょっと常軌を逸している。

 

このゲームのキャッチコピーは「だれも死ななくていい、優しいRPG」だ。そう、このゲーム最大の特徴は「敵を倒しても倒さなくてもかまわない」というところにある。そして主に「敵を倒すか倒さないか」でストーリーが分岐する。このあたりはどこからがネタバレになるかの線引きが難しいのだが、「敵を一体以上倒してクリアする(通称Nルート)」「敵を一体も倒さずにクリアする(通称Pルート)」「すべての敵を一定数以上倒してクリアする(通称Gルート)」というそれぞれの条件のうちいずれかを満たすことでストーリーが180°変わる。

プレイヤーが最初に進むのはNルートだ。これはどんなふうにプレイしても変わらない。最初の1周目は固定だ。そしてNルートをクリアし、ゲームをはじめからにすることでPルート、Gルートをプレイできるようになる。Nルートをクリアし、このゲームの構造の一部を知ったプレイヤーの多くはPルートをプレイするだろう。だれも殺さず、たくさんのモンスターたちと友達になり、感動のハッピーエンドを迎える頃には、涙でエンドクレジットが滲んでいるはずだ。人間的、あまりに人間的なモンスターたちは、どうしたって好きになってしまうだろう。キュートで、ユーモラスで、不器用な彼らと結んだ友情は、ゲームの中の出来事であっても胸を暖かくしてくれる。まるで大切な友達がほんとうにできたみたいに。

 

問題はGルートだ。ネタバレ厳禁とは言ったが、ここからは多少核心に触れなければならない。少しでもネタバレを踏みたくない方はある程度気が済むまでゲームをプレイしてから読むことを勧める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、先程からプレイによって分岐するルートをそれぞれNルート、Pルート、Gルートなどと呼んでいるが、NはNeutral(中立)、PはPacifist(平和主義者)の頭文字である。そしてGはGenocide、つまり「虐殺ルート」だ。つまりどういうことか。Nルートで心を掴まれ、Pルートで深い友情を築き、好きになったキャラクターたちを、Gルートでは殺さなくてはいけない

もちろんGルートをプレイするかどうかはプレイヤー個人の判断だ。無理にプレイする必要はないし、大好きなキャラクターたちを虐殺していくのは精神的にかなりキツい。あるキャラクターから何度もやめるように忠告されるし、そうでなくてもやめたくなるように演出されている。ここでプレイヤーがGルートを進めるための動機づけになっているのはただの「好奇心」だ。「モンスターたちを殺し続けていったらどうなるのだろう?」というただそれだけの好奇心を満たすために、プレイヤーは罪悪感と闘いながらも非道な行いに手を染めることになる。

ここで効果を発揮するのが「メタ要素」だ。殺すといってもたかだかゲームの中のお話だ。なにも「ほんとうに」生きているものを殺すわけではない。主人公がモンスターを殺すとき、そこで起こっているのは生命の明滅ではない。ただコンピューターの機械的処理によってプログラムが動いているだけだ。しかし、先述の「メタ要素」によって、プレイヤーは画面のなかに有機的に駆動するひとつの世界を見出す。そこには彼らの生命があり、心があり、死があると感じる。だからプレイヤーにとって、彼らを殺すことは「ほんとうに」殺していることと同じであり、そこには強烈な罪悪感が伴う。

ここには、映画や小説などとは違う形で、「ゲーム」という表現媒体にしか為し得ない形でメタ要素が働いている。上述の通り、映画や小説などにおけるメタ要素は、通常「作品世界が現実世界に侵襲する」という形式を持っており、それは概ね一方通行的なものだ。それは映画や小説などでは鑑賞者があくまで受動的な存在であるということに依拠している。しかし「ゲーム」では作品を動かしているのはプレイヤーであり、プレイヤーは作品世界に干渉する、きわめて能動的な存在となる。ゲームはプレイヤーに干渉し、プレイヤーはゲームに干渉する。これはゲームという表現媒体ならではの構図であり、これによってゲームにおけるメタ要素は、「作品世界が現実世界に侵襲する」と同時に「プレイヤーが作品世界に侵襲する」こととなる。つまり『UNDERTALE』は、メタ要素によってこのゲーム特有の構図を最大限に利用したゲームであり、だからこそプレイヤーはモンスターを殺すとき、「ほんとうに」殺していると感じるのだ。

繰り返すが、我々がゲームのなかでモンスターたちを殺すとき、もちろんそこでは「ほんとうの命」は失われていない。ただプログラムが動いているだけだ。だが『UNDERTALE』においては、『UNDERTALE』を遊んだプレイヤーに対しては、そんな現実主義は通用しない。Toby Foxは、「ゲームという作りものの世界のなかなんだから、虐殺だろうとなんだろうとしたってかまわない」という、ごくごく常識的な見解に対し「果たしてほんとうにそう言い切れるか?」「ゲームのなかでも、命は命だろ? (少なくともこの世界(ゲーム)のなかでは)」という、われわれの倫理観を揺さぶる問いを投げかける。『UNDERTALE』は、「ゲームをプレイする」という行為そのものに対する省察を孕んだ、まさに「ゲームについてのゲーム」、「メタ・ゲーム」であると言えるだろう。

 

ふつう、われわれの生きる現実の世界では、命とは有機物のことを指し、無機物は命をもたないと定義されている。脳死状態の人間が生きているか死んでいるかなどという議論に対しては、ゲームのなかのキャラクターに命があるかどうかなどというのはきわめて馬鹿げた議論ということになる。だが、人間の心には共感能力がある。人が掃除用ロボットに愛着を覚えるのはそのロボットに何らかの「自分たちと似たもの」を見出しているからであり、ロボットが壊れれば持ち主がそれをひとつの「死」とみなすのはそれほど馬鹿げたことだとは思わないはずだ。『UNDERTALE』はこの人の心が持つ高い共感能力を利用し、掃除用ロボットの死と同様、「命」の定義の限定的な拡張を主張しているのだ。ゲームのなかの命は命ではないが、人間の心はそれを命だと思うことができる。だからわれわれは、サンズやパピルス、アンダインやアルフィー、トリエルやアズゴアのことを心から愛することができるし、彼らを殺すことがどれほどの罪悪感を生むかをも知っている。

 

ゲームを起動し、キャラクターを動かし、モンスターを倒し、世界を救う。「ゲームを遊ぶ」という人間の営為は、ただフィクションを消費するだけの行為ではない。ひとつの世界に干渉することだ。ゲームはただのプログラミング言語の羅列かもしれないが、そのなかに息づく命もある。『UNDERTALE』をプレイしながら、そんな馬鹿げたことを考えたのだった。