俺がいちばん米津玄師をまじめに聴いている

というのはさすがに言い過ぎだが、ここ数年間でそれなりにまじめに聴いてきたつもりだ。

まじめに聴くって何だって話だけどまあ「熱心に聴く」に少々の「分析的に聴く」成分を混ぜたくらいのニュアンスで言っている(完全に「分析的に聴く」となると音楽理論的なところまで分析の範囲になるし、俺は音楽理論そんなにわからないので)。

 

米津玄師の楽曲の良さとか魅力とかについてはもうそこらじゅうで語られていることなのでわざわざ俺が言うまでもない。なのでここでは俺個人のツボにハマった曲についてアルバムごとに語っていこうと思う。先に言っておくと以下は何も考えずに書き散らした駄文です。

 

1st Album『diorama』

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米津は今でこそポップスターだけど、このファーストアルバムはかなりマニアックなインディー/ギターロックをやっている。全体的に燻んだトーンのサウンドで、空虚で気怠い雰囲気に満ちていながら、かなり作り込まれていると思う。おそらく宅録がメインで、マスタリングだけ人の手が加わっていると思うが、それにしてもミックスの質が良すぎる。これミックスまでひとりでやってたとしたらすごい(宅録のボカロ曲とかだと曲がよくてもミックスがあれなことがよくある)。

ギターのリフとかはちょっと初期OGRE YOU ASSHOLEっぽさも感じるアルバム。ノイズの感じはSonic Youthかな(「TEENAGE RIOT」って曲も出してるし)。ラーメンに例えると煮干しとか魚介系。知らんけど適当に言った。

 

1.「街」

ファーストアルバムの1曲目のイントロからスライサー(っていうギターのエフェクターがある)かよ!っていうところが、もう良い。この時点でひねくれてる。

 

2.「ゴーゴー幽霊船」

Aメロの右側でめっちゃ気持ち悪い変なギターが鳴ってるのが最高。まじめにやれ。「汚物 ヤンキー 公害 メランコリー」ってフレーズも素晴らしいよね。いまだにライブでよく演奏される初期の代表曲。

 

6.「ディスコバルーン」

ノイジーなギターソロからのギター2本による単音リフ、そして再びノイジーインプロヴィゼーションへの流れが心地よい。左右それぞれから交互に聴こえる単音リフはメロディが入った途端裏表が反転する感じが実に気持ち悪くて気持ちいい。最高。

 

7.「恋と病熱」

タイトルは宮沢賢治の詩からの引用。アルバムの中ではかなり好きな曲。歌詞の内容は「乾涸びたバスひとつ」と直接にリンクしている。

 

8.「Black Sheep」

いや2番とギターソロのとこのパーカッション。頭おかしい。歌と歌詞が一致してないのも面白い。ムニャムニャ何言ってるか分からないところは歌詞カードを見ると「何を話しているのかはよくわからなかった」となっている。「Black Sheep」と繰り返し発音しているところは「黒い羊がn匹、n+1匹、n+2匹……」みたいな表記になっている。

 

9.「乾涸びたバスひとつ」

タイトなドラムスとベースラインがsyrup16gっぽい。てかsyrup好きなんだろうなあ。珍しく、というか唯一?ヨネケンのシャウトが聴ける曲。

 

10.「首なし閑古鳥」

またしても狂ったイントロ。アップテンポでノリのいいリズムなのにどこか虚しい。この明るいのか暗いのか分からない感じは「パプリカ」にも通ずるものがあると思う。

 

12.「抄本」

イントロは2分かけてギター6本重ねてる。BUMPの天体観測かよ。変なゴソゴソしたノイズで終わる。始まり方も終わり方も変なアルバム。

 

2nd Album『YANKEE』

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前作よりずいぶん分かりやすくポップになったとはいえ、ヨネケン節は健在。

いちばんゴチャゴチャしてガチャガチャしたアルバムだと思う。ごった煮とでも言うべきか。とにかくバラエティに富んでいる。

前作に続きギターが前面にフィーチャーされた楽曲が多い。めちゃくちゃカッコいいけどところどころやりすぎてる(褒めてる)ので疲れるっちゃー疲れるアルバム。ラーメンに例えると二郎。

 

2.「MAD HEAD LOVE」

曲も歌詞もMVもすごくいい。恋愛を醜さや愚かさを含んだ滑稽な戯画として俯瞰したうえでその狂気を見事に描いてると思う。「痣だらけの宇宙」って表現まじでよくない? あと「ベイビーアイラブユー」とかいう死ぬほど使い古されたフレーズをここまでフレッシュに聴かせるの地味にすごい。

 

3.「WOODEN DOLL」

BUMPだしRAD。

 

4.「アイネクライネ」

中高生人気の高いカラオケ定番曲。キーボードがいいアクセントになっている。

 

5.「メランコリーキッチン」

大好き。この16ビートのドラムとパーカッションで既に勝ってる。

 

7.「花に嵐」

鳴ってるギターが全部クソほどカッコいいしキモい。Aメロ、Bメロ、サビの後ろで鳴ってるリフが全部やりすぎ。やりすぎててキモい。キモくてカッコいい。米津ギター好きすぎだろ。この曲に関してはメロディは飾りだと思う。

 

9.「しとど晴天大迷惑」

ギター。

 

10.「眼福」

アコースティックなバラード。いわゆる普遍的なラブソングだけどコードと途中のリフが変。これを安易に弾き語りしようとするとたぶん押さえたことのないキツい運指を強要されます。サビの後のリフがスゲー気持ち悪い。何これ?許されるの?ギターソロはブルージー

 

12.「TOXIC BOY」

声ネタ曲。みんな気付いてると思うけど「チェリーボンボン」は「メランコリーキッチン」への自己言及。シンセがだいぶやらかしてる。

 

13.「百鬼夜行

「サンタマリア」のB面なのになぜかアルバムに入った曲。「MAD HEAD LOVE」と両A面だった「ポッピンアパシー」はリストラされたのに。

 

14.「KARMA CITY」

米津史上最も狂った曲。2つのメロディと歌詞が同時進行してサビで統合される。2つのメロディは歌詞も微妙に違うのでどちらが主旋律でどちらがコーラスというわけでもないっぽい。いわゆるあたおか曲。

 

15.「ドーナツホール」

最高の一言。声ネタ曲。

 

3rd Album『Bremen』

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ギターは控えめになり、シンセや打ち込みが増えた。メロディアスでポップではあるが歌詞が暗いアルバム。聴きやすいがやや印象に残りづらい曲も。音楽的にはそんなに変わったことはしていないからそんなに言及するところもない。ラーメンに例えると中華そば。

 

1.「アンビリーバーズ

俺はこれ元ネタはBUMPの「Stage of the Ground」やと思います。知らんけど。Vampire Weekendにも同名の曲あったけど。

 

11.「シンデレラグレイ」

これ、あんまり指摘してる人いないんだけど、「12時を越えて」って歌詞の後にあるブレイク(無音)が12拍(=12時を越える)なんだよね。細かすぎて伝わってないぞ。

 

13.「ホープランド」

めちゃくちゃ好きな曲。ライブでアンコールの最後にこれ聴けたの嬉しすぎた。ブリッジの歌詞がいい。

 

4th Album『BOOTLEG

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完全に名盤なんだよね。文句なしの。難点といったら前半が最強すぎて後半若干弱く感じるくらい。「BOOTLEG」というタイトルが示すとおり、「アンチ・オリジナリティ」を標榜したアルバム。つまり米津はここでは自分の音楽をパロディ的・二次的なものとして位置づけていて、ほとんどの楽曲に元ネタがある。ラーメンに例えると家系。

 

2.「LOSER」

車のCMでおなじみ。アレンジは蔦谷好位置が関わっている。有無を言わさずカッコいい。とにかくリズムがいい。

 

3.「ピースサイン

ヒロアカ効果でキッズ達にも大人気の曲。元ネタは和田光司「Butter-Fly」とのこと。サビのメロディが独特。

 

4.「砂の惑星

元々はハチ名義で発表したボカロ曲。絡み合うツインギターがテクニカル。初音ミクのコーラスが控えめに入っている。

 

5.「orion」

イントロはThe Chainsmokersの「closer」からの露骨なサンプリング。全盛期の小沢健二並みのそのまんま度。

 

6.「かいじゅうのマーチ」

これもsyrup16g「(This is not just)Song for me」が元ネタやと勝手に思ってます。根拠はない。ブリッジは「今日の日はさようなら」が元ネタかな。

 

7.「Moonlight」

繰り返される「本物なんてひとつもない」というフレーズが象徴するとおり、『BOOTLEG』というアルバムの精神的な中核を担う曲。ぜんぶ何かのコピーだし、完全なオリジナルなんてないよ、という。ポップソングとして王道のAメロ-Bメロ-サビという構成を逸脱したこんなダウナーな曲が日本でトップクラスに売れてるミュージシャンのアルバムに入ってるというのがいいね。

 

8.「春雷」

これはほんとうによくできた曲だと思う。これを聴いた時、米津玄師は作詞よりも作曲よりも編曲の才能が飛び抜けて優れていると思った。この曲の何がすごいって「音色」で、必要な場所に必要な音色がバチっとハマっている感覚。イントロのギターリフは「桜の花びらが舞い散るときの動き」を表象していると勝手に妄想している。左右に往復しながら落ちる感じね。Bメロのブレイクのあとのジャーンとかもなかなか鳴らせそうで鳴らせない音だと思う。何度聴いてもよくできた曲だなあと感心してしまう。紛うことなき名曲。

 

5th Album『STRAY SHEEP』

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アルバムとしてのまとまりは『BOOTLEG』のほうがよいと思うが、小粒揃いの良作。ラーメンに例えようと思ったけど思いつかないのでやめます。まだそこまで聴き込めていない。

 

2.「Flamingo」

声ネタてんこもりファンク。どこかで「ドンキーコング64のオープニング曲が元ネタ」という説を見たときは笑った。

 

3.「感電」

TBS系ドラマ『MIU404』の主題歌として書き下ろされた曲。かなりジャズっぽい洒脱なコード進行が使われている。ドラマではこの曲を使うタイミングを逆算して演出していたとのこと。

 

8.「Lemon」

言わずもがなの名曲。TBS系ドラマ『アンナチュラル』の主題歌として書き下ろされた曲。ロックバラードだけどリズムトラックとベースの鳴り方はトラップっぽい。例のごとく声ネタもあり、ヒップホップの要素も取り入れられている。裏で鳴ってる金属音とか、違和感の演出が洗練されている。

 

14.「海の幽霊」

アニメーション映画『海獣の子供』主題歌用の書き下ろし。エフェクトのかかったコーラスは米津が家で作ったのをスタジオに持ってきたらしい。『怪獣の子供』は本当に凄まじい狂気の作品なので、これが主題歌として渡り合えているかと言われたら米津の手に負えるレベルじゃない気もするけど健闘している(個人的にはあの映画の主題歌は平沢進レベルじゃないと厳しいと思う)。カラオケで歌うと裏声いっぱい出せるよ。

 

あと米津の曲はアルバムに収録されないシングルの3曲目とかがかなり良いんだけど、さすがにそこまで触れると長くなりすぎるのでやめときます。

 

以上、かなり適当に書き散らしてみた。俺が言いたいのはそれなりに耳の肥えた音楽好きもメジャーなJ-POPだからといって敬遠しないで聴いてくれってことです。むしろ音楽を繊細に聴く技術に長けたマニアのほうが聴いてて面白いと思う。

というわけで皆さんも米津玄師を是非聴いてみてください。よろしくお願いします。

ビデオゲームに心を救われて何が悪い

 あいもかわらず心の底に鉛が沈んでいるような毎日を送っている。休みの日は何もする気になれないし、何をしても気分が晴れない。ただ息をして飯を食っているというだけで、生きているという感じがしない。いや、生きているからこその苦痛を感じているのだが、そこにはヒリヒリとした切迫感のようなものがなく、ただ緩慢で気怠い痛みが全身に纏わりついているだけだ。

 刺激を求めて何かできるだけ人に迷惑をかけない犯罪行為にでも及ぼうかと半ば本気で考えたりもしたが、馬鹿馬鹿しくなってやめた。自分が何に苛ついているのかも判然としないこの状況に苛ついている。

 

 外に出る元気がないので、ここ最近はゲームをよく遊んでいる。といっても『あつ森』などの大型タイトルではなく、Nintendo Switchにて配信されている世界各国のインディーズゲームだ。

 その中のいくつかは本当に素晴らしい出来で、荒んでしまった俺の心をいくらか勇気づけてくれた。ひとつずつ紹介したい。ネタバレあるかも。

 

1. 『ナイト・イン・ザ・ウッズ』

 

 絶賛相次ぐ大傑作アドベンチャー。大学を中退し、衰退していくばかりの田舎町に帰ってきた主人公メイ。旧友のビー、グレッグ、アンガスらと遊んで過ごすが、町には不気味な事件の影が潜む。メイは過去にクラスメートに暴行を加え入院させており、心に問題を抱えていることが仄めかされる。ビーは家庭の事情で高卒で働くことを余儀なくされ、自分が憧れていた「大学」をあっけなく中退したメイに複雑な感情を抱いている。グレッグとアンガスはゲイのカップルで、2人で町を出ることを夢見て働いている。町に住む人々それぞれに生活の苦悩や心の葛藤があり、それは時として強烈に生々しく、切実に描かれる。誰がプレイしても「こいつは自分だ」と思ってしまうようなキャラクターが1人はいるはずだ。

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主人公メイと主な舞台となるポッサム・スプリングの町

 しかし今作はそこまで暗い作品ではない。キュートなビジュアルや美しい音楽はシナリオのもつ鬱屈した雰囲気をうまく中和しており、ユーモアに溢れた会話の数々にクスリとさせられる場面も数多い。そして何より、最後には希望が描かれる。その希望は不確かなものかもしれない。世の中も自分も、過去も未来も現在も、何もかもすべてがクソったれで最悪だとしても、人はいつか大人になるし、働いて金を稼ぎ、飯を食って生きていかなくてはならない。最後に残る微かな希望は諦めと裏表の関係だ。そう、世の中はクソだ。自分もクソだ。それでもその痛みを背負って生きていくことは、何も感じないよりマシなはずだ。

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 『ナイト・イン・ザ・ウッズ』が描いているのは絶望ではない。かといって解像度の粗い希望を押し付けているのでもない。暗く塞がれた状況にあってもなお、「ただ生きる」人々を肯定し、彼らに温かく優しい眼差しを注いでいるのだ。このゲームのエンディングを迎えたとき、プレイヤーは心の奥に小さな、しかし暖かい火が灯るのを確かに感じるだろう。

 

2. 『Celeste』

 

 ハードコア鬼畜2Dプラットフォームアクション。主人公の女の子マデリンが不思議な山「セレステ山」をひたすら登り続けるという設定。

 恐ろしく難しい。とにかく気がおかしくなるほど死ぬ。死にまくる。同じ場所で100回くらい死ぬこともあり得る。ストーリーをクリアするまでの7時間で1500回くらい死ぬなんてのはザラ。かなり意地の悪い仕掛けが山のように次々と現れるのだが、リスポーンがスムーズなためそれほどストレスは感じない。グラフィック、音楽も非常に美しい。

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 アクションの鬼畜さにばかり注目されがちな作品だが、なんといってもストーリーが秀逸。主人公マデリンは何らかの精神疾患を抱えており、もう1人の自分、即ち自らのダークサイドを克服していく様が描かれるのだが、その克服の過程とゲームの難しさそのものが持つ意味合いがリンクしているのだ。言い換えれば、作品がもつメッセージと、プレイヤーが実際に得るゲームプレイの体験が乖離していないのだ。

 このゲームは9割がプレイヤーの失敗で構成されている。何度も何度も、数え切れないほど失敗する。しかし失敗していくなかで「難しすぎる、絶対できない」と思われた難関はやがて「もしかしたらいけるかも」「もうちょっとでできそう」に変わっていく。そしてひとつひとつ、ゆっくり少しずつ先に進んでいく。それがこのゲームがもたらす体験だ。

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更なる狂気の難度を叩きつけてくる「B面」。ひとつのチャプターで612回死んでいる。

 これは心の病に対するアプローチにも通じる。例えば強迫症などに広く用いられる認知行動療法とは上のように「絶対できない」を少しずつ「できそう」に変えていく地道な作業だ。その途中で何度も失敗することもある。依存症の治療などについても同じことが言える。数え切れないほど失敗しても、諦めずに再び挑まなくては治療には至らない。

 諦めないためにまず必要なのは、何度も失敗することを自分に許すことだ。そうして初めて人はほんの少しずつでも前に進むことができる。

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マデリンのダークサイド。セレステ山に登ろうとするマデリンを引き止めようとする

 『Celeste』は心の病に対するアプローチについて真に示唆的なメッセージを与えてくれている。「何度でも失敗することを自分に許すこと」、「ほんの少しずつでも前に進むこと」、「自分のダークサイドを受け容れること」。たとえ精神の疾患に苦しんでいる人でなくても、苦難に満ちた人生を歩むうえでこれらのメッセージは確かなヒントになるはずだ。

 

3. 『Sayonara Wild Hearts』

 ポップでカラフルなリズムアクション。恋に破れた少女の心は崩壊し、少女は時速300kmの精神世界でもう一人の自分(たち)と対峙する。

 上で紹介した2作品ほどはっきりとした骨太なストーリーがあるわけではないものの、バラエティ豊かなアクションや、エレクトロ・ポップ・サウンドに彩られた素晴らしい楽曲の数々によってただひたすら楽しいゲームとなっている。

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基本となるバイクアクション。コースに散りばめられたハートを拾うとスコアになる

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バイクに銃がつき、シューティング要素のあるステージ

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車も運転できる。キャプチャ画像では本作のスピード感を伝えられないのが残念

 そして何より、この作品が放つあまりにストレートでシンプルなメッセージには心打たれてしまった。このゲームのタイトルが示すとおり、少女は自分の心に打ち勝ち、失恋の傷から回復するのだが、そのエンディングはまるでプレイヤーに「大丈夫。きっとその傷もいつか癒えるよ」と優しく、力強く語りかけているかのようだった。「さよなら、砕け散った心の破片たち。ーそう思える日がいつか来るよ」と。少なくとも俺は今作からそんなメッセージを受け取ったし、このゲームに心を励ましてもらった、慰めてもらったような気持ちになった。失恋して落ち込んでいる人にお勧め。

  なお今作はサウンドトラックが抜群に良い。心が浮き足立つような四つ打ちのエレクトロポップはあまりに強烈でダンサブル。楽曲単体で聴いても素晴らしいが、ゲームプレイ中に流れるこれらのサウンドは演出との相互作用によりかなりの快楽をもたらしてくれる。


Begin Again - Sayonara Wild Hearts OST

 

 

 この数ヶ月でいろんなインディーズゲームを遊んだが、その中でも個人的に感情を揺り動かされた3作を紹介した。ビデオゲームは浪費的な趣味かもしれないが、時として人の心を癒す力も秘めている。生きること、傷つくこと、その中に何かを見出すこと。いくつかのゲームは、遊びという体験の中にそうした人生の妙味のようなものを内包している。それらは暗く閉ざされた心に、ふっと風が通り抜けていくような、小さな明かりが灯るような、そんな感覚をもたらしてくれる。苦しみに満ちた人生の中で、ユートピア的な仮想世界としてのゲームに身を委ねるのも悪くないが、「現実に」生きる力を与えてくれるゲームもこの世にはたくさんあるのだ。

 Nintendo Switchはインディーズゲームの宝庫だ。『Coffee Talk』や『Baba Is You』『返校-Detention-』『Cuphead』など傑作の数は枚挙に暇ない。しかしやはり、ここで触れた3作品は、ただ傑作なだけではなく、俺にとって特別な意味を持つ作品になるだろう。

「ゲームのなかの命」は命か? ー『UNDERTALE』について

ゲームを起動し、キャラクターを動かし、モンスターを倒し、世界を救う。それはコンピューターゲーム、とりわけRPGが誕生してから、幾度となく繰り返されてきた。

『UNDERTALE』は、その「ゲームを遊ぶ」という人間の営為そのものに向けて、あるシビアな問いを投げかけた作品だ。

 

『UNDERTALE』はToby Fox氏とごく僅かな協力者たちによって制作されたRPGであり、インディーズゲームながら世界中で大ヒットを記録している作品だ。日本でも非常に人気が高く、熱心なファンが多い。

 

『UNDERTALE』は「ネタバレ厳禁」とされている作品だ。作中に仕込まれたサプライズやトリックにより、プレイヤーはかなり鮮烈な体験をすることになる。そして実際のところ、ネタバレの程度によってはその効果はいくらか損なわれてしまうだろう。

 

『UNDERTALE』のシステムはシンプルなRPGそのものといっていい。ドットで描かれたグラフィック、コマンド式の戦闘……どこにでもある、原始的とも言えるRPGだ。

では何がそんなに鮮烈な体験を引き起こすのか。それはこのゲームが「メタ・フィクション」であり「メタ・ゲーム」であること、つまり「ゲームについて言及したゲーム」であることだ。

メタフィクションのもっともわかりやすい例は「作中のキャラクターが、自分がその作品の中のキャラクターであることを自覚している」「キャラクターが読者(観客)に語りかけてくる」といったものだ。映画や小説、マンガ、アニメ、あらゆる表現のなかでこの手法は繰り返し用いられてきた。この手法により、フィクションをフィクションとして眺めていた読者は、「フィクションであるはずの世界がこちら側の現実世界に侵襲してくる」感覚をもつことになり、「作品」の定義が「これを見ている私を含めた世界」に拡張される。たとえば『ファニーゲーム』という映画では、罪のない家族をなんの理由もなく殺害する男が、突然カメラ目線で観客に向かってウインクするシーンがある。観客はこの瞬間自らが「傍観者」であることに気付き、強い不快感と共になんともいえない居心地の悪さを覚える。『UNDERTALE』には、これとよく似た効果をもたらす演出が散りばめられている。

 

『UNDERTALE』はいわゆる「マルチエンディング」であり、プレイヤーの選択によってストーリーが分岐する。これ自体は特段珍しくない、よくあるシステムなのだが、上述の「メタ要素」によってほかのどんな表現媒体にも為し得ないほど新鮮で切実な体験を生み出している。

具体例を挙げよう。プレイヤーがAの行動をとる。するとその行動Aをしたとき専用のテキスト(キャラクターのセリフ)が表れる。行動Bの場合も同様に「行動Bをしたとき専用のテキスト」が表れる。それだけではない。「行動Aをしたあと、『ゲームをリセットして』行動Bをした」場合、そしてその逆、「行動Bをしたあと、リセットして行動Aをした」場合、「何度もリセットして同じ行動を繰り返した」場合、それぞれに専用のテキストが用意されているのだ。つまり、Toby Foxはプレイヤーのあらゆる行動を予測しているということになる。さらに「通常プレイでは決して侵入できない、ゲームの内部データを操作して侵入したエリア」でも、わざわざ「それ専用」のテキストと妙に凝った演出が用意されている。挙げ句の果てにはプレイヤーだけでなく、「動画サイトで実況プレイを観ている人」に向けたテキストまで存在する始末だ。ちょっと常軌を逸している。

 

このゲームのキャッチコピーは「だれも死ななくていい、優しいRPG」だ。そう、このゲーム最大の特徴は「敵を倒しても倒さなくてもかまわない」というところにある。そして主に「敵を倒すか倒さないか」でストーリーが分岐する。このあたりはどこからがネタバレになるかの線引きが難しいのだが、「敵を一体以上倒してクリアする(通称Nルート)」「敵を一体も倒さずにクリアする(通称Pルート)」「すべての敵を一定数以上倒してクリアする(通称Gルート)」というそれぞれの条件のうちいずれかを満たすことでストーリーが180°変わる。

プレイヤーが最初に進むのはNルートだ。これはどんなふうにプレイしても変わらない。最初の1周目は固定だ。そしてNルートをクリアし、ゲームをはじめからにすることでPルート、Gルートをプレイできるようになる。Nルートをクリアし、このゲームの構造の一部を知ったプレイヤーの多くはPルートをプレイするだろう。だれも殺さず、たくさんのモンスターたちと友達になり、感動のハッピーエンドを迎える頃には、涙でエンドクレジットが滲んでいるはずだ。人間的、あまりに人間的なモンスターたちは、どうしたって好きになってしまうだろう。キュートで、ユーモラスで、不器用な彼らと結んだ友情は、ゲームの中の出来事であっても胸を暖かくしてくれる。まるで大切な友達がほんとうにできたみたいに。

 

問題はGルートだ。ネタバレ厳禁とは言ったが、ここからは多少核心に触れなければならない。少しでもネタバレを踏みたくない方はある程度気が済むまでゲームをプレイしてから読むことを勧める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、先程からプレイによって分岐するルートをそれぞれNルート、Pルート、Gルートなどと呼んでいるが、NはNeutral(中立)、PはPacifist(平和主義者)の頭文字である。そしてGはGenocide、つまり「虐殺ルート」だ。つまりどういうことか。Nルートで心を掴まれ、Pルートで深い友情を築き、好きになったキャラクターたちを、Gルートでは殺さなくてはいけない

もちろんGルートをプレイするかどうかはプレイヤー個人の判断だ。無理にプレイする必要はないし、大好きなキャラクターたちを虐殺していくのは精神的にかなりキツい。あるキャラクターから何度もやめるように忠告されるし、そうでなくてもやめたくなるように演出されている。ここでプレイヤーがGルートを進めるための動機づけになっているのはただの「好奇心」だ。「モンスターたちを殺し続けていったらどうなるのだろう?」というただそれだけの好奇心を満たすために、プレイヤーは罪悪感と闘いながらも非道な行いに手を染めることになる。

ここで効果を発揮するのが「メタ要素」だ。殺すといってもたかだかゲームの中のお話だ。なにも「ほんとうに」生きているものを殺すわけではない。主人公がモンスターを殺すとき、そこで起こっているのは生命の明滅ではない。ただコンピューターの機械的処理によってプログラムが動いているだけだ。しかし、先述の「メタ要素」によって、プレイヤーは画面のなかに有機的に駆動するひとつの世界を見出す。そこには彼らの生命があり、心があり、死があると感じる。だからプレイヤーにとって、彼らを殺すことは「ほんとうに」殺していることと同じであり、そこには強烈な罪悪感が伴う。

ここには、映画や小説などとは違う形で、「ゲーム」という表現媒体にしか為し得ない形でメタ要素が働いている。上述の通り、映画や小説などにおけるメタ要素は、通常「作品世界が現実世界に侵襲する」という形式を持っており、それは概ね一方通行的なものだ。それは映画や小説などでは鑑賞者があくまで受動的な存在であるということに依拠している。しかし「ゲーム」では作品を動かしているのはプレイヤーであり、プレイヤーは作品世界に干渉する、きわめて能動的な存在となる。ゲームはプレイヤーに干渉し、プレイヤーはゲームに干渉する。これはゲームという表現媒体ならではの構図であり、これによってゲームにおけるメタ要素は、「作品世界が現実世界に侵襲する」と同時に「プレイヤーが作品世界に侵襲する」こととなる。つまり『UNDERTALE』は、メタ要素によってこのゲーム特有の構図を最大限に利用したゲームであり、だからこそプレイヤーはモンスターを殺すとき、「ほんとうに」殺していると感じるのだ。

繰り返すが、我々がゲームのなかでモンスターたちを殺すとき、もちろんそこでは「ほんとうの命」は失われていない。ただプログラムが動いているだけだ。だが『UNDERTALE』においては、『UNDERTALE』を遊んだプレイヤーに対しては、そんな現実主義は通用しない。Toby Foxは、「ゲームという作りものの世界のなかなんだから、虐殺だろうとなんだろうとしたってかまわない」という、ごくごく常識的な見解に対し「果たしてほんとうにそう言い切れるか?」「ゲームのなかでも、命は命だろ? (少なくともこの世界(ゲーム)のなかでは)」という、われわれの倫理観を揺さぶる問いを投げかける。『UNDERTALE』は、「ゲームをプレイする」という行為そのものに対する省察を孕んだ、まさに「ゲームについてのゲーム」、「メタ・ゲーム」であると言えるだろう。

 

ふつう、われわれの生きる現実の世界では、命とは有機物のことを指し、無機物は命をもたないと定義されている。脳死状態の人間が生きているか死んでいるかなどという議論に対しては、ゲームのなかのキャラクターに命があるかどうかなどというのはきわめて馬鹿げた議論ということになる。だが、人間の心には共感能力がある。人が掃除用ロボットに愛着を覚えるのはそのロボットに何らかの「自分たちと似たもの」を見出しているからであり、ロボットが壊れれば持ち主がそれをひとつの「死」とみなすのはそれほど馬鹿げたことだとは思わないはずだ。『UNDERTALE』はこの人の心が持つ高い共感能力を利用し、掃除用ロボットの死と同様、「命」の定義の限定的な拡張を主張しているのだ。ゲームのなかの命は命ではないが、人間の心はそれを命だと思うことができる。だからわれわれは、サンズやパピルス、アンダインやアルフィー、トリエルやアズゴアのことを心から愛することができるし、彼らを殺すことがどれほどの罪悪感を生むかをも知っている。

 

ゲームを起動し、キャラクターを動かし、モンスターを倒し、世界を救う。「ゲームを遊ぶ」という人間の営為は、ただフィクションを消費するだけの行為ではない。ひとつの世界に干渉することだ。ゲームはただのプログラミング言語の羅列かもしれないが、そのなかに息づく命もある。『UNDERTALE』をプレイしながら、そんな馬鹿げたことを考えたのだった。

旅行記2018 大阪・香川・広島・島根編

9月17日、新幹線で静岡から大阪へ向かう。車内でチャンドラーの『ロング・グッドバイ』を読むが、いまひとつ良さがわからない。新大阪のホームにはハローキティの柄の新幹線が停まっていて、サラリーマン風のおじさんが写真を撮っていた。

 

いったんホテルにチェックインしてから、大阪城の野外音楽堂でハンバートハンバートのライブを観る。演奏は素晴らしかったのだが、客層がカップルや夫婦、学生グループなどが多く、少し肩身の狭い思いをする。

 

大阪には観光目的ではなく中継地として訪れた。本当はもう少し中心地も見て回りたかったが、時間の余裕もなく、疲れていたので諦める。大阪城からの帰り道にマクドナルドをテイクアウトしてホテルで食べる。

 

翌朝。9月18日。大阪から新幹線で岡山を経由して香川県丸亀市に向かう。丸亀はすごく静かな街で、ひとつひとつの音が遠くからはっきりと響いてくるような感じだった。午後に到着したのだが、このあたりのうどん屋さんはお昼しか営業していないところがほとんどのようで、数少ない夜営業しているお店の開店を待つ。

 

市街を散歩してみる。明らかにコンビニよりうどん屋のほうが多い。夜営業のうどん屋に入ると、気さくな店主にいろいろ話しかけられる。「香川ではうどんが主食」というのは誇張でもなんでもなく単なる事実らしい。なんでも雨が少なく日照りの強い気候が小麦をつくるのに適しているようだ(その代わりに米はまずいらしい)。ほかにも地元の人はこうやって食べる、とかこの食べ方は観光客しかしない、とか、頼んだもの以外にも試食させてもらったり、うどんについて色々レクチャーしてもらう。

初めて食べた香川のうどんはたしかに衝撃的だった。いままで食べたことのあるうどんとは明らかに別の食べ物だった。すごい。うどんという食べ物ひとつで、ちょっとしたカルチャーショックを受ける。

 

翌日。9月19日。別のうどん屋を2軒ほどハシゴして、丸亀城の周囲をぐるりと散歩する。お堀の池には真っ白なアヒルと真っ黒なアヒルが一羽ずついた。

 

広島へ向かう。すごい都会だ。広島市街はとにかくチャリ率(と可愛い女の子率)が高く、しかもみんなけっこうなスピードを平気でビュンビュン飛ばしていて、歩行者としては少し怖い。

せっかくなので平和記念公園原爆ドーム)のあたりを散策する。狭い歩道を歩いていたら修学旅行生と思われる生徒達の群れに巻き込まれ、少し気まずい。

そのままお好み焼き屋「大福」に入る。ひどく年季の入った店構えで、寡黙な店主が野球中継を観ながらお好み焼きを作ってくれる。いつもはそんなに飲まないのだが、ビールを3杯も飲んでしまう。

この日は誕生日だった。少し気分が塞いでいた。基本的に誕生日というのは好きではない。お好み焼きとビールで気分をリセットする。

 

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9月20日。朝に出る高速バスで山を越え、島根県出雲市に到着する。適当に時間をつぶしてから電車に乗り、最終目的地である温泉津(ゆのつ)市に向かう。温泉津は名前のとおり温泉街で、レトロな街並みが今も残っている。無人駅を降りて旅館まで少し歩く。子どもがひとりもいない。地図を見るとこの市には小学校がないようだ。

 

浅原才市の生家の前を通る。才市は浄土真宗妙好人として鈴木大拙が紹介したことで知られる。大学生のときに受けた講義のなかで浅原才市と温泉津の町の存在を知り、その才市の為人と町の景観に惹かれるものを感じ、温泉津には一度行ってみたいと思っていた。

 

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旅館「のがわや」は感じの良いところで、共同の温泉のほかに貸切の温泉にも入ることができる。温泉を出てひと休みする。夕食が運ばれてくる。

 

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ここで食べた「のどぐろの煮付け」は人生でベストと言えるほどの圧倒的な美味さだった。食べ物の美味さで涙が出たのは後にも先にもこれが初めてだった。絶句する。言葉を失う。頭を抱える。それほど美味かった。暴力的なまでの美味さだった。量が多くて完食に2時間かかった。

 

9月21日。温泉津で2泊していく予定だが、特にやることもない。不安定な天気だったがすこし晴れ間が見えたため街を散歩する。9月の下旬だがまだ蝉が威勢よく鳴いている。才市の像を見にいく。レトロな街はなんだか異世界のように、透明な膜で覆われたように非現実的な感触だった。子どもの頃の実在しない記憶が目の前にあるようだった。

 

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旅館に戻り、ぐだぐだと時間を潰す。隔絶された異世界YouTubeを観る。何もやる気が起きない。

 

9月22日。朝風呂に入り、朝飯をたらふく食う(食後にコーヒーが出てくるのが嬉しい)。旅館を発ち、主人に駅まで乗せてもらう。無人駅で切符の買い方がわからず人に尋ねる。そもそも切符は売っていないらしい。後払いのバスのように、車内に乗車駅からの運賃が表示され、降りてから払うようだった。

 

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出雲駅から出雲空港までのバスに乗る。空港でお土産を物色する。鳥取に近いからか、ゲゲゲの鬼太郎のグッズも売っている。家族と知人たちにお土産を買い込む。このとき買った「因幡の白うさぎ」「白ウサギフィナンシェ」というお菓子がすごく美味かった。

 

飛行機で静岡に帰る。5泊6日。いい旅行だった。静岡は雨だった。

『騎士団長殺し』における「みみずく」についての連想ゲーム

 『騎士団長殺し』における「みみずく」についての連想ゲーム

 

 先に言っておくとこの文章はまともに作品を論じたり解釈したものではない(まあいつもそんな感じだけど)。全部俺の単なる思い付きであり、ほぼこじつけに近い。なんとなく「免色」って漢字が「兎」と似てるなーというところから色々考え始めたらなんかよくわかんないけど色々繋がってんじゃん、というだけのお話である。ただの戯れだが個人的にはちょっと面白いなと思ったので書いてみた(実際にこれ書いたのは2年くらい前だけど)。

 

 じゃ以下。

 

 

 「みみずく(ふくろう)」は文化や時代ごとに、「不吉」と「幸運」の両方のイメージを持たれてきたとされている*1

 『騎士団長殺し』の中でも、雨田政彦が「みみずくが家に住み着くのは吉兆」だと言いつつも、「Blessing in disuguise(偽装した祝福)=一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの」の「逆」=「一見喜ばしそうに見えて実は不幸なもの」がある、と発言している(第一部142頁)。『騎士団長殺し』においても、みみずくは両価的存在なのだ。


 ここで、『騎士団長殺し』においてみみずくを中心に様々なアイテムやファクターがどのような連関にあるのかを整理してみる。


 上記の雨田政彦の発言は、文脈上「Blessing in disguise」の「逆」=「一見喜ばしそうに見えて実は不幸なもの」が「みみずく」を指していると解釈できる。だが、それが指し示しているのは「みみずく」だけだろうか。『騎士団長殺し』において、「一見喜ばしそうに見えて実は不幸なもの」。それを体現するようなキャラクター。つまり「免色」もそれに該当するのではないか。

 免色は身なりもよくハンサムで、恐ろしい金持ちであり、瀟洒な豪邸に住み、たいして働きもせずに何不自由ない生活を送っている。側から見ればなんとも羨ましい生活だ。しかしその内面には尋常ならざる屈折のようなものがある。まさに「一見喜ばしそうに見えて実は不幸」なのだ。

 

 さて、話は変わるが、「みみずく」は漢字にすると「木兎」だ。兎(うさぎ)のような「耳(羽角)」を持って木に停まっているからだろうか。また、兎の漢字は「兔」とも書き、「免色」の「免」という字とよく似ている。そして免色は「白」という色を背負っており、頭髪も家も真っ白である。

 ところで、われわれは「兎(うさぎ)」というとまず何色を思い浮かべるだろうか(私は白いうさぎを真っ先に思い浮かべる)。


 兎とみみずくの外見的特徴である「耳」も「聴覚」という意味として捉えると、新たな対応関係が浮かび上がる。作中、穴の中から鈴の音が聞こえてくる場面では、聴覚的な描写が非常に細かくなされている。またその穴から出てきたという騎士団長(イデア)の姿は「私」にしか見えず、声も「私」にしか聞こえない(騎士団長はよく「私」の耳元で何ごとかを囁く)。「耳(聴覚)」はこの作品の中で啓示のような役割を果たしていることからも注目すべき点である。


 みみずくと騎士団長は、物語の超越的な部分に位置する者たちであり、メタな視座から物語全体を見下ろしているような印象を受ける。また、作中で騎士団長が「みみずくのように」という比喩で表されることが多い点から、何らかの意味的関連性を持たされていると考えられる*2


これらの関係を図にするとこんな感じである。

 

 

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 ※実線は作品内における意味的な対応・指示関係を表し、破線はイメージ(字の形や実際の外見)の類似および連想を表す。

 

 

 矢印によって結ばれた関係を一つずつ整理していく。


「Blessing~」→「みみずく」:第一部142頁の雨田政彦の台詞から。みみずくが「不幸なもの」である可能性を示唆している。


「Blessing~」→「免色」:「一見喜ばしそうに見えて実は不幸」という言葉が免色と重なる


「免色」↔「白」:免色は頭髪も自宅も真っ白で、白というイメージカラーを背負っている


「兎」⇨「白」:うさぎといえばたいていの場合白いイメージである


「兎」⇔「免色」:字面がよく似ている


「兎」「みみずく」⇨「耳(聴覚)」:うさぎとみみずくの外見的特徴といえばその耳である


「みみずく」⇨「兎」: 同じ漢字が含まれており、どちらもその耳が外見的な特徴である


「みみずく」↔「騎士団長」:作中で関連性を示唆するように描写されている


「騎士団長」↔「耳(聴覚)」:騎士団長の鳴らしていた鈴の音や、騎士団長の囁き声など、聴覚的描写が重要な役割を果たす

 

 このように整理してみると、「みみずく」ひとつとっても様々なファクターと複雑な関連にあることが分かる。これらの中には小説的なテクニックや遊び心やただの思いつきによるものも含まれるかもしれないが、全てが意図されたものであるとはちょっと考えにくい。

 だからと言って偶然という一言で済ませるのも面白くないので結論っぽくまとめると、こういったイメージや意味の関連性は、村上が小説を書くにあたって深く降りていった「地下二階」の領域に存在するものなのかもしれない。それらは「地下二階」で深く結びつき合っている。村上がそのイメージたちを掘り起こし、小説という形にすることによって、物語の重要な有機的ファクターとして起動したのかもしれない。

 このような、「ばらばらに配置されたはずのものが何か意味をもっているかのように繋がりをもって現れてくること」をユング心理学では「布置 constellation」と呼ぶ。

 村上春樹の作品では時折このような「布置」が描かれる。『東京奇譚集』収録の「偶然の音楽」という短編もまさに「布置」(あるいは「共時性 synchronicity」)の物語である。

 「できすぎた偶然」が物語の中でのみならず、そこからはみ出し、現実レベルで顕現するような出来事は不思議と存在する*3スピリチュアリズムを掲げるわけではないが、「物語の力」は時折そのような形で作用することがあるのかもしれない。少なくとも村上春樹の小説を読むとき、俺はいつも、どこかそういう感触を覚える。

 

*1:古代中国では、母親を食う不孝な鳥とされ、冬至にとらえて磔(はりつけ)にし、夏至にはあつものにして、その類を絶やそうとしたという。『五雑俎(ござっそ)』にも、福建などでは、フクロウは人間の魂をとる使者といわれ、その夜鳴きは死の前兆とされたとある。わが国江戸時代の『本朝食鑑』には、人家に近くいるときは凶であり、悪禽(あくきん)とされ、あるいは父母を食い、人間の爪(つめ)を食うと記す。西洋でも、フクロウは不吉な前兆を表す鳥とされ、古代ローマの皇帝アウグストゥスの死は、その鳴き声で予言されていた。ユダヤの律法を記す『タルムード』は、フクロウの夢が不吉であることに触れているし、『旧約聖書』の「レビ記」はけがれた鳥に数えている。しかし、古代ギリシアでは、アテネを守護する女神アテネの鳥として信仰され、現代でもアテネの神格を受け、知恵と技芸の象徴に用いられる。フクロウを集落の守護者とする信仰もある。北アメリカの先住民ペノブスコット人は、縞(しま)のあるフクロウは危険を予知し、警告するとし、パウニー人は夜の守護者といい、チッペワ人は剥製(はくせい)のフクロウを集落の見張り役とした。北海道のアイヌ民族は、シマフクロウを飼育し、儀礼的に殺して神の国に送り返す、シマフクロウ送りの行事を行う」 コトバンクhttps://kotobank.jp/word/フクロウ-124187 より引用

*2:第一部21章では、「形体化していないあとの時間は、無形のイデアとしてそこかしこ休んでおる。屋根裏のみみずくのようにな」(352頁)、「そして騎士団長は今ではこの家の中に住み着いている。屋根裏のあのみみずくと同じように」(354頁)、「眠り込む前にふとみみずくのことを考えた。みみずくはどうしているだろう?」(355頁)と、三度にわたって「みみずく」というワードが出てきており、うち二度は「騎士団長」が「みみずくのようである」と比喩されている。また「眠るのだ、諸君、と騎士団長が私の耳元で囁いたような気がした。しかしそれはたぶん夢の一部だったのだろう」(355頁)とあるが、この部分は第一部6章の最後「夜中にみみずくの動き回るがさがさという音を聞いたような気がした。しかしそれは切れ切れな夢の中の出来事だったかもしれない」(115頁)という部分とよく似ている。

*3:「偶然の音楽」は村上自身が体験したという「できすぎた偶然」についての話で、作中に「乳がんを患った女性」が登場するのだが、俺がたまたまその短編を読んでいたその日、母親から「乳がん検診に行ってきて、あまり良い結果ではなかった」という電話が掛かってきたときは寒気がした。また大学の心理学の講義中に、あまりにもつまらない講義だったため『1Q84』を読んでいた(初読)ところ、作中でユング集合的無意識についてのくだりが語られ始めたその瞬間、講師がユング集合的無意識について話しはじめたこともあった

『石のまくらに』について

『石のまくらに』について

 

 前回に引き続き、学生のときに書いたものを載せる。せっかく書いたものだし、いつまでもMacのデータ内に置きっぱなしのままにしておくのもなんとなくもったいない気がしたので、拙文ながら衆目に晒してみる。

 

 

  1. はじめに

 

 文藝春秋が発行する文藝誌『文學界』の2018年7月号に、村上春樹による3作の短編小説が掲載された。短編はそれぞれ『石のまくらに』『クリーム』『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』と題され、『三つの短い話』という表題で括られている。

 本稿では、その中のひとつ『石のまくらに』を取り上げる。物語のあらすじをまとめ、作中にある「短歌」が物語のなかでどのような意味や機能をもっているのかを考察する。

 なお、引用元のページ数は、掲載誌記載のページ数に準拠する。

 

  1. あらすじ

 この小説は大きく4つのシークエンスに区切ることができる*1。したがって、わかりやすくするために各シークエンスごとに分けてあらすじを書くことにする。先に、各シークエンスの範囲を明記しておく。

 

 シークエンスA:p10冒頭から、p11中央「……音のなさ、なさ」まで

 

 シークエンスB:p11の台詞「ねえ、いっちゃうときに……」から、p17「……ただそれだけのことなのだ」まで

 

 シークエンスC:p17「その一週間後に……」から、p20「……光にさそわれ/影に踏まれ」まで

 

 シークエンスD:p20「彼女が今でもまだ……」から、結末まで

 

 シークエンスAでは、この物語が「回想録」であることが示されている。語り手である「僕」が、顔も名前も覚えていないというある一人の女性について語り始める。

 「僕」と彼女は「僕」が大学二年生、19歳のときに同じアルバイトで知り合い、ふとした成り行きで一夜を共にすることになるが、そのあと一度も顔を合わせていないという。彼女はおそらく20代の半ばで、短歌をつくっており、一冊の歌集を出版していた。最後に短歌が2首インサートされる。 

 

 シークエンスBでは、「僕」と彼女が一夜を共にする様子と、その前後の出来事が描かれる。彼女がアルバイトを辞める際に開かれた飲み会の帰り道に、彼女は家が遠いから「僕」の家に泊めてほしいと言う。彼女は「僕」との性行為に及ぶ際に「ねえ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それは構わない?」と尋ねる(p11)。彼女はその男が好きなのだが、男にはほかに恋人がおり、性交目当てで都合よく彼女を呼び出すのだという。「僕」は壁の薄いアパートで声が漏れると困るといい、彼女がその男の名前を呼ぼうとするとタオルを口に噛ませる。

 翌朝、彼女は自分が短歌を書いているということを話す。タオルには彼女の歯型がくっきりと残っていた。彼女は歌集を後日送ると言って、「僕」の名前と住所を控える。彼女の服にはスズランのブローチがついていた*2

 

 シークエンスCでは、彼女から送られてきた歌集について語られる。「僕」はそれが本当に送られてくるとは期待していなかったが、一週間後に『石のまくらに』と題された歌集が届く。歌集は簡素なつくりで、作者の名前は「ちほ」と記されていた。「僕」はその週末の夕方*3に歌集のページを開く。そこには42首の短歌が収められていた。そのうちの8首ほどは、「僕」の「心の奥に届く何かしらの要素を持ち合わせていた」(p19)。ここで短歌が2首インサートされる。その歌集を読んでいると、「僕」は彼女の身体を克明に思い出すことができた。最後に短歌が2首インサートされる。

 

 シークエンスDでは、「回想録」が終わり、時制が「現在」に変化する。「僕」は彼女の書く短歌の多くが死をイメージしていることから、彼女がもう生きてはいないのではないか、どこかの地点で自らの命を絶ってしまったのではないかと感じることがある、という。短歌が1つインサートされる。「僕」は彼女が今も生きて短歌を詠み続けていることを願い、時間の流れの速さや、それに伴い多くのものごとが消え去っていくこと、その中でいくつかの言葉だけが残るということに想いを巡らせる。最後に短歌が1首インサートされる。 

 

 3.  短歌についての疑問点と解釈

 

  村上春樹の作品に「短歌」が登場するのは初めてのことである。村上はかねてより自分にとっての短編小説を「実験場」と位置づけており、今作の短歌も村上にとってのひとつの実験であり新しい挑戦だと考えられる。以降では、今作において短歌がどのような意味を持っているのか、どのように機能しているのかについて考えていく。

  

 3-1. 「石のまくら」と「首」について

 

 まずは大きなポイントから考えていく。それはこの短編のタイトルでもあり、「ちほ」が上梓した詩集のタイトルにもなっている「石のまくらに」という言葉だ。「石のまくら」という言葉が含まれている短歌は作中に2首登場する。のちに参照しやすいようにそれぞれ番号をふって以下に引用する。 

 

 ①石のまくら/に耳を当てて/聞こえるは 

  流される血の/音のなさ、なさ(p11)

 

 ②たち切るも/たち切られるも/石のまくら 

  うなじつければ/ほら、塵となる(p23)

 

 「石のまくら」とは何か。調べてみると、「死者の頭を支えるために用いられた石製の枕。モンゴルの青銅器文化にもみられる。日本では古墳時代の中期、後期に多く用いられている」*4とある。作中にも「彼女のつくる短歌のほとんどは、男女の愛と、そして人の死に関するものだった」(p11)、「詠まれた歌の多くは—少なくともその歌集に収められていた短歌の多くは—疑いの余地なく、死のイメージを追い求めていた」(p21)とあるように、「石のまくら」という言葉は「死」(それも古墳時代の「古代の死」である)に関連するイメージとして使われている。 

 

 「死」を連想させる短歌はほかにも登場する。 

 

 ③やまかぜに/首刎ねられて/ことばなく 

  あじさい*5の根もとに/六月の水(p20)

 

 ④午後をとおし/この降りしきる/雨にまぎれ 

  名もなき斧が/たそがれを斬首(p21)

 

 これらの短歌には「死」のなかでもとりわけ「首を刎ねられる」「斬首」といった具体的な死の形があらわれている。これらが「死」を表象していること、その中でも「石のまくら」という言葉が「古代の死」を暗示していることや、「首を刎ねられる」といった具体的な死のイメージはこの小説内でどのような意味をもっているのだろうか。

 

 まずは「石のまくら」という言葉について考えてみよう。シークエンスDにおいて「僕」は時の流れが多くを消し去っていくなかでいくつかの言葉だけが残る、と言う。「いくつかの言葉」とは、この場合「ちほ」のつくった短歌のことを指している。そしてこの短編の最後にインサートされる短歌が②である。古墳時代の「石のまくら」にのせられた「古代の死体」は時間の流れとともに塵となって消えてしまう。だが、「ちほ」と二度と会うことがないとしても、彼女が仮に死んで塵になってしまったとしても、彼女の短歌だけはどれだけ時間が流れても「僕」の内部に残り続ける。「しかしなにはともあれ、それはあとに残った。ほかの言葉や思いはみんな塵となって消えてしまった」(p23)。つまり、「石のまくら」というキーワードは、シークエンスDで執拗に語られている「多くのものを消し去る時の流れ」というダイナミックなタイムスパンを示すためのものであり、「石のまくら」が暗示する「古代の死」は「時間の流れの中で消えずに残る言葉(ここでは彼女の短歌)」と対比される「消えていくもの」である。「石のまくら」が大昔のものであるということを理解するだけで、これらの短歌やこの短編全体がより時間的・空間的な広がりをもって感じられるようになっているのだ。

 

 シークエンスDには「……しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ」とある(p22)。前後の文脈からいくらか浮いたこの文章はどのように解釈すればよいのだろう。ここでは、ある言葉を後に残すために差し出さなくてはならないものとして、「自らの身」と「自らの心」と「僕ら自身の首」が同列におかれている。「身と心を無条件に差し出す」「首を石のまくらに載せる」とはどういうことだろうか。文面通りに解釈すれば「死」を意味するように思われるが、より自然な形で解釈するならば、「死」を自らに内在化する、すなわち「死を受け容れる」*6ことが、言葉をあとに残すことができる条件である、ということになるだろうか。言葉が長い時を越えて生きつづけるためには、自らの死を自覚し、受け容れることで「時間性」をメタに認識する必要がある。「自らが消えゆく存在であること」を知ることによって、言葉がいわば「受肉」するのだ。

 

 「斬首」というキーワードは前作の長編『騎士団長殺し』との関連性が指摘できる。「斬首」は『騎士団長殺し』では雨田継彦という人物が「軍の上官からの命令で、捕虜の首を切り落とさなければならない」という形で印象深く登場したモチーフである(雨田継彦はそのトラウマから手首を切って自殺した)。しかし、他者への明確な「暴力」として描かれていたそれとは異なり、ここでは「ちほ」自らが斬首による死を追い求めているかのように書かれており、自殺の可能性が仄めかされている。また、『騎士団長殺し』には「漁港の町の女」が登場する。「漁港の町の女」は「セックスのときに首を絞められることを求め」、主人公にバスローブの紐で首を締められる。それに対して「ちほ」は「首を斬られることを求める女」であり、ここには関連性が推察できる。つまり、「ちほ」という人物と彼女のつくる短歌は、『騎士団長殺し』における「雨田継彦」と「漁港の町の女」という二人の人物がもつ要素のハイブリッドであり、同じ系譜上に位置するものなのではないだろうか。

   また、この短編に登場する短歌にはすべて「/(スラッシュ)」が使われているが、これは「斬首」の「刃」のイメージを喚起させるために意図的に用いられた表記だと考えることができる*7

 

 3-2. 「男女の愛」について

 

 作中でインサートされる短歌は上に示したもののほかにあと4つある。その中で「男女の愛」について詠まれたと思われる歌は以下の3つである。 

 

 ⑤あなたと/わたしって遠いの/でしたっけ? 

  木星乗り継ぎ/でよかったかしら?(p11)

 

 ⑥また二度と/逢うことはないと/おもいつつ 

  逢えないわけは/ないともおもい(p20)

 

 ⑦会えるのか/ただこのままに/おわるのか 

  光にさそわれ/影に踏まれ(p20)

 

 これらに共通して描かれているものは、みてのとおり「ある人とある人との距離感」である。それは「木星」という惑星クラスのスケールで測れるほど遠い存在のようにも思え、ふたたび会うかどうかも定かではないないような相手である。では、その相手とは誰のことだろう。上に引用した短歌のうち⑥と⑦は、「2.あらすじ」では便宜上シークエンスCの最後に含めたが、じつはシークエンスDの頭に含めることも可能であり、実質的にはシークエンスCとDの両方にまたがるようにして作用している。どういうことか。つまり、この2首をシークエンスCの一部に含めれば、「ちほ」と「男」の関係性についての短歌として読むことができ、シークエンスDの一部に含めれば、メタ的に「僕」と「ちほ」の関係性についての短歌として読む(厳密にいうと、「僕」がこの2首を「僕」と「ちほ」の関係性に重ね合わせて読んでいる)ことができる、ということである。要するにダブルミーニングである。「ちほ」が好意を寄せている男は、先に述べたようにかなり都合よく彼女を性的に利用している。しかし「ちほ」はそれを理解していながらその男に献身する。そうするとこの男は「ちほ」にとって「ふたたび会えるかどうか定かでないような相手」とは言えないように思えるかもしれない。しかしシークエンスCの最後、⑥⑦がインサートされる直前で「彼女はオーガズムを迎え、タオルを思い切り噛みしめたまま目を閉じ、僕の耳元で別の男の名前を、何度も何度も切なく呼び続けていた。僕がもう思い出せない、どこかの男のとても平凡な名前を(p20)」と「男」に言及されている文があることから、文脈上⑥⑦を「ちほ」と「男」の関係性についてのものとして解釈することはできる。ここから、この「会えなさ」は物理的な距離というよりも心理的な距離であると解釈することができる。こちらは相手のことがとても好きなのだが、それが完全に一方通行なものであると分かっており、いとも簡単に捨てられてしまうかもしれない、もう連絡してくれないかもしれない、そんな関係性なのかもしれない。そう考えると、⑥は「男から連絡が来ず、ふたたび会えることを半ばあきらめかけている心情」、⑦は「男とまた会えるかどうか、期待(=「光にさそわれ」)と落胆(=「影に踏まれ」)を行ったり来たりしている心情」として読むことができる。「僕」はシークエンスDにおいて、心理的な距離ではなく物理的な距離としてこの2首に自分自身と彼女の距離を重ね合わせており、また読者もそう読めるように書かれているのだ。

 

 3-3. 「今」について

 

 もうひとつ、「死」とも「男女の愛」とも明確にカテゴライズできない短歌が登場する。それが以下である。

 

 ⑧今のとき/ときが今なら/この今を

  ぬきさしならぬ/今とするしか*8(p19)

 

 これはほとんどナンセンスなトートロジーのようにも感じられ、この短編のどの部分と関係しているのか一見しただけでは見当もつかない。しかし必ずなにか意味があるはずだ。まず「ぬきさしならぬ」という部分に注目してみる。「この今」を「ぬきさしならぬ今とする」とはどういうことだろう。また、ここでいう「ぬきさしならぬ」とはどういう意味なのか。次のように考えられる。「ぬきさしならない」を辞書でひくと「身動きがどれず、どうにもならない。のっぴきならない*9」とある。同義語である「のっぴきならない」は「引き下がることも、避けることもできない。進退きわまる。どうにもならない*10」という意味である。引き下がることも、避けることもできないもの。それはなにか。「今」である。「未来」は一瞬ごとに「今」になりつづけ、「今」は常に消滅しながら「過去」になりつづけている。「この今」は次の一瞬には消えてなくなるしかない。そしてこの摂理は誰にも変えようがなく、「どうにもならない」のである。このことを踏まえて⑧を読むと、この短歌は「今はぬきさしならない状況である」と言いたいのではなく、「今というものはどうしようもなく消えて行ってしまう、ぬきさしならないものである」と言いたいのではないかと考えられる。つまり⑧では、「今」という概念の「あり方」そのもの、その「刹那性」を「ぬきさしならぬ」と形容している、というふうに解釈できる。もちろんその「ぬきさしならない刹那性」は、「石のまくら」が指し、またシークエンスDで語られる「多くのものを消し去る時間の流れ」と呼応しているのだ。

 

 4.  まとめ

 

 これまで、作中に登場する8首の短歌がどのような意味をもち、どのように機能しているかを論じてきた。ここではそれらを簡単にまとめる。

 

 ①②は「石のまくら」という言葉について考察した。「石のまくら」とは古墳時代に用いられた「死者の頭を支えるための道具」であり、これは「古代の死」を暗示していると同時に「多くのものを消し去る時間の流れ」をあらわしている。また、シークエンスDにある「言葉をあとに残すためには、僕ら自身の首を石のまくらに載せなければならない」というような意味の文章は、「言葉が生きつづけるためには、自分が死んで消えていく存在であることを受け容れなければならない」と解釈した。

 

 ③④については、「斬首」をキーワードに、『騎士団長殺し』との関連性を指摘した。『騎士団長殺し』には「捕虜の首を斬らされて自殺した雨田継彦」「セックスの最中に首を絞められることを求める女」が登場し、ここに「ちほ」との共通点を見出した。また、短歌に「/」が用いられているのは「斬首」の「刃」をイメージさせるためであると考えた。

 

 ⑤⑥⑦は「ある人とある人との距離感」を表現したものである。これは「ちほ」と「男」という組み合わせと、「僕」と「ちほ」という組み合わせとで二重に意味付けされている。ここではとくに「ちほ」と「男」の関係性について考察した。

 

 ⑧は「ぬきさしならぬ」という部分に注目し、これが「今」という概念の刹那性について詠まれた歌であると解釈した。そしてそのように解釈すると、小説全体、とくにシークエンスDの内容や「石のまくら」が示す「時間の流れ」と呼応することがわかった。

 

 こうしてみると、『石のまくらに』という新作短編は「時間」がテーマのように思われる。そして『騎士団長殺し』でも「時間」に関する見解のようなものが頻出していた。それ以前の作品にもそのような要素がないわけではないが、ここまで明確に前景化してきたのは「近年の傾向」と言っていいだろう。

 

 「短歌」という村上の実験は、わずか13ページの短編をこのように重層的かつ様々なファクターに結びついた、広がりをもった物語に仕立て上げたという点において、成功したのではないだろうか。

*1:これはあくまで「シークエンスの切り替わり」を基準にした区切り方であり、ほかの基準による区切り方も当然あり得る。

*2:「スズラン」は美しい見た目とは裏腹に、人を死に至らしめるほどの強い毒性をもった花である。ここにも「死」や村上作品に頻出する「見た目と中身のずれ」の要素が絡んでいる。

*3:この「夕方」とはいわゆる「逢魔時(大禍時)」、つまり死の世界との「あわい」を暗に示唆している。

*4:コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 より引用(7月11日閲覧)

https://kotobank.jp/word/石枕-30634

*5:あじさい」も有毒植物である。また、「水」というキーワードは『騎士団長殺し』において小説全体に底流していたモチーフのひとつである。

*6:『クリーム』でも、キリスト教の宣教をする車が「人はみな死にます」「すべての人がいつかは死を迎えます。この世界に死なない人はひとりもおりません(p30)」と言っている。

*7:短歌の区切りにスラッシュを用いるのは、それほどポピュラーな手法ではない。

*8:筆者がこの短歌を読んで真っ先に連想したのは『騎士団長殺し』の第二部、51章の章題であり騎士団長の台詞である「今が時だ」であった。この章題は『騎士団長殺し』の章題のうちもっとも短く、読者にひときわ強い印象を与えると同時に、章の内容もまた強烈なインパクトを与えるものであった。そしてそこでは騎士団長が「自ら殺されることを求め」、まさに「ぬきさしならない」状況が描かれている。ここには本短編および⑧との何らかの関連性が見出せる。

*9:Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/抜き差しならない より引用(7月15日閲覧)

*10:Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/のっぴきならない より引用(7月15日閲覧)

『木野』と「抑圧されたものの回帰」

『木野』と「抑圧されたものの回帰」について

 

これは俺が学生のときに書いたものだ。すこし加筆修正してここに載せることにする。『木野』を読んでいて、ふと「これはトラウマの構造と相似的だなあ」と感じたので村上春樹ラカン的に解釈してみた。なお途中に挿入される手書きの図解が雑すぎる点についてはどうかご容赦願いたい。

 

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 村上春樹による短編小説『木野』(短編集『女のいない男たち』所収)は、精神分析における「抑圧されたものの回帰」の物語である、と読むことができる。ここでは、『木野』の物語構造を取り出し、「抑圧されたものの回帰」の構造と比較し、その対応関係を提示する。

 


 「抑圧されたものの回帰」とは精神分析の用語である。分析主体(患者)にとって認めたくない出来事にまつわるシニフィアン*1は無意識の領域に押し込められる(抑圧)。するとそのシニフィアン(または表象)は別の姿に形を変え、自我の検閲をくぐり抜けて再び意識の領域に浮かび上がってこようとする。これが「抑圧されたものの回帰」であり、それは時として「夢」や「症状」という形をとる。(図1)

 

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「抑圧されたものの回帰」の実例を挙げる。少し長い引用だが、たとえば以下のようなものだ。

 

 彼女は一つの思い出に苦しめられていた。情景は悪夢となって繰り返し襲い、その度に彼女は眠りを妨げられなければならなかった。分析の場においても、気づけばまたその思い出を話し始めていることに気づき、彼女は当惑するのだった。

 その思い出は、汗ばむ男たちが打ち付けるハンマーの音によって呼び起こされた。高校生の頃、彼女は工事現場の近くを通りかかったことがあった。回転を続ける扇風機が粉塵を巻きあがらせる中、彼女は労働者たちが自分に目を向けているように感じ、悪寒を覚えた。彼女は、自分がなぜこんなにも不気味に思うのか分からず、困惑した。そのまま家に帰ると、食事をする力もなく、寝床に倒れてしまった。翌日、高熱が出た彼女は、高校を休まなければならなかった。このエピソードは、決して忘れることのできないものとして彼女の中に溜まった。

 彼女は、なぜこんな些細な思い出が自分を苦しめるのだろうかと自問した。労働者の目線を感じたというだけのことが、なぜこんなに不快に感じられるのだろう? 彼女の分析は、その問いによって舵を取られていた。

 分析家は沈黙を守った。苛立ちのあまり、なぜあなたは理解を示してくれないのかと、分析家に詰問したこともあった。しかしそれでも、望んでいる解決は訪れないのだった。

 事態は、ある日のセッションにおいて動き出した。その日彼女は、再びその記憶を語り始めた。「なぜ、あんな人夫(にんぷ)の視線なんかで……」と彼女が言った時、分析家はただ「人夫?」とだけ聞き返した。すると彼女には衝撃が走り、すぐさま次のような思い出を話し始めたのだった。

 それは、彼女の妹の誕生にまつわるエピソードだった。彼女の母はキャリアウーマンで、毎日遅くまで家に帰ってこなかった。彼女は母親を尊敬していた。母娘の関係は良好で、自分は母の惜しみない愛情を受けていると思っていた。在宅業者の父はほとんどの家事を任されており、自分の妻に対して、いつも控えめだった。「私は父親が何だか分からない……お父さんは弱い人だったから」と彼女は言っていた。彼女と父の関係は、親子というより友人に近いものだった。

 しかしある時母親は、長期休暇を取ったことがあった。二番目の子供を孕み、出産休暇を余儀なくされたのである。幼い彼女は、なぜ母のお腹が大きいのか、そして、なぜ母がずっと家にいるのか分からず、父に質問した。すると彼は「母さんは妊婦だからね」と返答した。

 幼い彼女にはその言葉の意味が分からなかった。それでも「妊婦」というシニフィアンは抑圧され、無意識的なものにとどまった。抑圧されたシニフィアンは、工事現場での出来事において、回帰することになった。この二つの出来事を結びつけていたのは、「ニンプ」というひとつのシニフィアンだった。

 このシニフィアンは享楽と存在の問いに結びつけられていた。母親が妊娠している間、家族の関心は生まれてくる第二子に注がれ、彼女は置き去りにされたように感じだたものだった。彼女に取って妹の誕生は、母の愛という享楽的な対象を失うことを意味していた。

 「人夫」のシニフィアンを構成する「夫」の文字(レットル)は、彼女に、友達のように思っていた父親が、あくまで男性であったことを実感させた。父親はただ「弱い人」ではなく、人の夫として、彼女の母を妊娠させる能力(ポテンシャル)を持っていたのである。自分の父親が不能インポテンツ)であるという幻想(ファンタスム)は、母の妊娠というエピソードによって破られてしまったのだった。母が愛していたのは自分だけではない、彼女は父を愛しているのだと知ることは、彼女にとって受け入れがたいことだった……。

『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』(片岡一竹 著,2017,誠信書房,p94-95)より引用

 

 このように、「抑圧されたシニフィアン」(上の例では「ニンプ」)は、「妊婦」→「ニンプ」→「人夫」というように自らの形を変えて、いわば「変装」して、症状として回帰する。精神分析では、この「抑圧されたシニフィアン」(図1で言えば◯)と「変装し回帰してきたシニフィアン」(図1で言えば△)の間の繋がりを見いだすことが重要とされている。ちなみに、なぜシニフィアンは回帰するのか、というその目的論的メカニズムは未だよく分かっていないらしい。

 

 ここで『木野』という物語の基本構造を取り出してみる。物語内の大きな出来事を時系列順になぞると以下のようになる。

 


①木野は妻が自分の同僚と寝ている現場を目撃してしまう

②木野は仕事を辞めてバーを開く

③猫が店に現れるようになる

④神田が店に現れるようになる

⑤火傷の女が現れる。関係をもつようになる

⑥妻と離婚の手続きのために顔を合わせる

⑦猫が消え、蛇が現れる。火傷の女も現れなくなる

⑧神田から遠くへ行くように指示される

⑨「窓を叩くもの」が現れる

 


 ここでは①⑥⑨に注目する。⑨のシーンでは作中でもっとも重要と思われる一節がある。それが以下である。

 

「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と妻は彼に尋ねた。「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく」と木野は答えた。でもそれは本当ではない。少なくとも半分は嘘だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。蛇たちはその場所を手に入れ、冷ややかに脈打つそれらの心臓をそこに隠そうとしている。

(『女のいない男たち』文春文庫版より引用,p271)

 


 このシーンでは木野が「窓を叩くもの」に恐怖し、怯えながら、自らの内面と向き合う様が描かれている。「傷つくべきとき」とはストレートに考えれば「妻の不倫を知ったとき」だが、「現場を目撃したその瞬間」という意味ではなく、もっと長いスパンとして捉えるべきだろう。そして「十分に傷つかなかった」ことによって木野の心は虚ろなものになり、「蛇」たちの隠れ家になろうとしている。おそらくは「窓を叩くもの」は木野が「傷つくべきときに十分に傷つかなかった」ことを原因として現れたものである。なぜなら「それ」が発する「目を背けず、私をまっすぐ見なさい(…)これがおまえの心の姿なのだから」(p275)という言葉をそのまま素直に受け取れば、「それ」は木野の心の「本来あるべき形」、つまり木野という引き受け手を失った「傷」が形を変えたものであると考えられるからである。

 木野は⑥のシーンで妻に「傷ついたんでしょう、少しくらいは?」と尋ねられ、そこで自らの傷を、自分がどれだけ傷ついているかを、自分の心のダークサイドの存在を十分に認めようとしなかった。神田が言う「正しいことしなかった」(p262)とはこのことであると思われる。そして主人を失った「傷」は、木野の元に戻ってこようと熊本のビジネスホテルの8階の窓を叩く。

 この構図(図2)は、先に触れた図1「抑圧されたものの回帰」の構図と以下のように対応している。

 

  • 「妻の不倫」「傷」↔︎「受け入れがたいシニフィアン(表象)」
  • 「傷つくべきときに充分に傷つかないこと」↔︎「抑圧」
  • 「窓を叩くもの」↔︎「無意識の形成物」

 

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 図1と図2には相似性が認められる。『木野』を「認められなかった『傷』が『窓を叩くもの』に姿を変え、木野の元に帰ってくる」という物語であると解釈すれば、精神分析における「抑圧されたものの回帰」の構造と対応していると考えることができる。

 なお「蛇」については、「窓を叩くもの」と全く同種のものではない、つまり「抑圧されたものの回帰」の構造とは直接には対応するものがないと思われたので、ここでは扱わない。


 また、村上春樹は2016年にデンマークで行われた「ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞授与式」におけるスピーチ『影の持つ意味』の中で、アンデルセンの作品『影』にちなんで、以下のように語っている。

 

 

 我々は時としてそのような影の部分、負の部分から目を背けがちです。あるいはそのような部分を力で排除してしまおうと試みます。人は自らの暗い部分を、負の資質を、できるだけ目にしたくないと望むものであるからです。しかし塑像が立体として見えるためには、影がなくてはなりません。影なくしては、それはただ平板な幻影となってしまいます。影を生まない光は、本物の光ではありません。

 どれほど高い壁を築いて侵入者を防ごうとしても、どれほど厳しく異分子を社会から排斥しようとしても、どれほど自分に都合よく歴史を作り替えようとしても、そのような行為は結果的に我々自身を損ない、傷つけるだけのことです。あなたは影と共生していくことを、辛抱強く学ばなければなりません。自分自身の内部に存在する闇をしっかり見つめなくてはなりません。ときには暗いトンネルの中で自らのダークサイドと対決しなければなりません。もしそれができなければ、やがて影はもっと大きく強い存在となって戻ってきて、ある夜、あなたの住まいのドアをノックすることでしょう。「さあ、戻ってきましたよ」と。(『MONKEY vol.11』p146,スイッチ・パブリッシング

 

 


 このスピーチは一見するとアンデルセンの『影』のことについて語っているようだが、かなり直截的に『木野』という物語の構造を明かしているようにも見える。つまりここで言われている「影」「闇」とは『木野』における「傷」のことであり、「傷を受け入れなければ、それは別の形で帰ってきて主人をより深く苦しめる」ということを、村上はここでも語っているのだ。


 このように、『木野』の物語は「抑圧された、排除された、認められなかった『傷』が姿を変えて主人の元へ帰ってくる」という構図として捉えることができ、それは精神分析における「受け入れがたいシニフィアン(表象)が自我の検閲をくぐり抜け、別の形で再び浮かび上がってこようとする動き」、すなわち「抑圧されたものの回帰」の構図と重なるのである。

*1:言葉の「音」の側面。たとえば「犬」のシニフィアンは「inu」という発音のこと